両手に、砂を盛る ── 擬育3

 寄せては返す渚(なぎさ)は私の好きな場所です。風の強い日はご遠慮願って、夏はもちろん冬でも、波の音を聞きながら波打ち際にたたずむと膝を折って砂をすくってみます。
 両手で砂をできるだけたくさん、山盛りに、すくってみましょう。なるべくこぼれ落ちないようにすくいあげましょう。その手を、おとなの女でイメージします。男はすくえないのです。なぜ? あかちゃんの誕生です。

 砂はさらさらとこぼれ落ちます。落とすまいとしても、こぼれます。落ちてゆく砂も美しい。音を立てずに落ちてゆきます。「子育て」とは、すくった砂をこぼさないようにすること、と考えてみたいのです。
 すくった砂に「足そう」とするのが「子育て」になっているのが現実だと思います。足すほうが簡単で、足すこと=育てること、と考えることは無理ないと思います。けれども、「すくった砂をなんとかしてこぼさない」が「子育て」と提案するだけで、ハッと気づく人も多いのではないでしょうか。
 あかちゃんが誕生したとき、あかちゃんが無事に産まれたことをよろこび、同時に母が元気なことを確かめてホッとします。あかちゃんを抱いて「母」になった実感を、すぐさまかまたは時間とともに得られるのでしょう。「父」も安堵とともにそれを自覚することになるでしょう。ここでは、順番があるのです。母が先で父があと。だから、砂をすくうイメージのその手は「女」でなくてはならなかったのです。

 さらさら落ちる体感は養浜した砂浜では得られません。須磨海浜公園の砂浜は視界の広さを感じられる場所ですが、砂つぶは荒くて大きく気持ちよいとは言えません。ビーチサンダルに入り込む砂は、きめ細かい砂だと痛くなく乾くとさらさら落ちます。これも気持ちよいものです。しかし、荒い砂だと痛くて乾くのを待つよりも払ってしまいそうです。名の知られた海浜よりも、ひっそり静かな浜の砂が「子育て」に思いを寄せる砂に向きそうです。

2019.2.19記す