関心があるから「こわい」── 擬育42

 幼児は言葉でも態度でもストレートに表現する。わかりやすい。だが、表現している言葉をその表現どおりに受け取ってよいかは微妙だ。
 2歳児の「こわい」はそのひとつだろう。「こわい」と言いながら、こわい対象を見つめている。それは、関心があるからだ。関心があるからこそ「こわい」。
 おとなだったら目をそらす、または目を覆う。5歳児はどうか。視線を向けるだけでなく、対象に距離を近づけることさえある。
 こわい対象は、おとなは受けいれがたいが、子どもは必ずしも避けているのではなく、受けいれる方法が見つからないため「こわい」と表現しているのかもしれない。だから、「こわい」は、関心があるよと言っているサインともいえる。

 保育士養成校で学生に「こわい」を強いてはいけないと話している。「こわい」を発するとき、子どもの体は硬くなる。受けいれられないのだ。説得するのもダメ。次の機会まで待てばよい。無理強いすると関心を失い遠ざけることになる。
 こわい対象を3つの例で具体的に考えてみよう。
 絵本に登場する《鬼》は、ユーモラスだったり、親しみすら湧くことがある。昔話に出てくる鬼は迫ってくるときがある。ハラハラドキドキこわいときも、やっつけられる鬼をかわいそうと思わせることもある。絵本に収まらず、節分のときは着ぐるみをまとった鬼が登場し、子どもを泣かせる。あとでどれほどなだめようと、鬼に対する恐怖は子どもの心を傷つける。
 アマガエルだったらさほどでもないけれど、手のひらほどある大きな《カエル》は「こわい」。少し触れて、ピョーンと跳ぶと、びっくり「こわい」。でも、仲良しの友達がつかんだ。すると「わたし(ぼく)もつかめるかもしれない」と思うこともあるだろう。
 危ないよと言われながら、子どもは端を歩く。階段は地面からだんだん高くなる。少しでも高いところから《飛び降りよう》とする。明らかに「こわい」を楽しんでいる。自分を試し、挑戦している。

2020.9.4記す