||||| 関心があるから「こわい」|||

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 幼児は言葉でも態度でもストレートに表現する。わかりやすい。だが、表現している言葉をその表現どおりに受け取ってよいかは微妙だ。
 2歳児の「こわい」はそのひとつだろう。「こわい」と言いながら、こわい対象を見つめている。それは、関心があるからだ。関心があるからこそ「こわい」。
 おとなだったら目をそらす、または目を覆う。5歳児はどうか。視線を向けるだけでなく、対象に距離をつめることさえある。
 こわい対象を、おとなは受けいれがたいが、子どもは必ずしも避けているのではなく、受けいれる方法が見つからないため「こわい」と表現しているのかもしれない。だから、「こわい」は、関心があるよと言っているサインともいえる。

 保育士養成校で学生に「こわい」を強いてはいけないと話している。「こわい」を発するとき、子どもの体は硬くなる。受けいれられないのだ。説得するのもダメ。次の機会まで待てばよい。無理強いすると関心を失い遠ざけることになる。
 こわい対象を3つの例で具体的に考えてみよう。
 その1。
 絵本に登場する《鬼》は、ユーモラスだったり、親しみすら湧くことがある。昔話に出てくる鬼は迫ってくるときがある。ハラハラドキドキこわいときも、やっつけられる鬼をかわいそうと思わせることもある。絵本に収まらず、節分のときは着ぐるみをまとった鬼が登場し、子どもを泣かせる。あとでどれほどなだめようと、鬼に対する恐怖は子どもの心を傷つける。

※ 節分の鬼、リアルすぎないか

 その2。
 アマガエルだったらさほどでもないけれど、手のひらほどある大きな《カエル》は「こわい」。少し触れて、ピョーンと跳ぶと、びっくり「こわい」。でも、仲良しの友達がつかんだ。すると「わたし(ぼく)もつかめるかもしれない」と思うこともあるだろう。
 その3。
 危ないよと言われながら、子どもは端を歩く。階段は地面からだんだん高くなる。少しでも高いところから《飛び降りよう》とする。明らかに「こわい」を楽しんでいる。自分を試し、挑戦している。


『昭和の子どもたち 5 季節の祭りと行事』(学習研究社 1986年)
作文:「おにがきた」岩手県・横合小学校4年 上平愛子 昭和45(1970)年
p37
//1月15日、わたしとおかあさんと二人で、だんごをつくって、木にさしてつるしました。おかしも糸でつるしました。それを二階と下にかざりました。
 そして、おにがくるのをまっていました。なかなかこないので、おかしをたべてまっていました。
 しばらくすると、竹ぶえをピーピーとふいて、おにがやってきました。
 そして、おとうさんをひっぱっていきました。おとうさんが、
「あけや、たすけろ」といいました。
「ほら、あけや、たすけんだあ」と、ねえさんがいったら、あけみは、
「えんな(いやだ)、おっかない」といって、こたつにもぐりました。
 こんどはおにが、うちの中にはいろうとしました。それで、わたしたちは、二階ににげていって、屋根の上から下をみました。そしたらおかあさんが、
「やねさあがれば、くんだぞう」といって上をみました。そしてからおかあさんが、おににおかしをやりました。
 そこへ、たみ子さんたちがあつまってきました。おにが、めんをとったら、たみ子さんのうちのおとうさんでした。まどからみていたら、こんどは赤坂の方にいこうとしていました。//


『昭和の子どもたち 5 季節の祭りと行事』(学習研究社 1986年)
作文:「岩谷町のなまはげ」秋田県・岩谷小学校6年 高橋裕昭 昭和45(1970)年
p40
//ぼくたちの町、県南岩谷(いわや)町には、いろいろな行事がある。この中の「なまはげ」という行事を説明しよう。
 「なまはげ」というと、男鹿(おが)を思いだすだろう。ぼくたちの町の「なまはげ」は1月15日の行事で、病気にならないようにということと、みんな幸福であるようにといった「あくまばらい」なのだ。
 この「なまはげ」になる人は、中学生や、中年の人たちだ。「なまはげ」がかぶる面は、神社からかりたり、自分でつくったりする。「なまはげ」は、午後六時過ぎからで始める。岩谷町の子どもだけではなく、ふもと村の子も参加する。来るのは、みんな中学生で、「わったわた」という行事が始まるようになると、かえっていくのだ。「なまはげ」がでると、みんなそばにいく。そうすると、「なまはげ」がぼくたちを追う。みんな、クモの子を散らしたようににげる。ある子は道をまっすぐに、ある子は、家ののき下に、ある子は、小路ににげる。
 このようなことをくり返して、八時あたりまで「なまはげ」の行事は、行われる。
 話は前にもどるが、「なまはげ」が家にはいると、子どもたちは、おしいれにかくれたり、テーブルの下にかくれたりする。「なまはげ」は、
「なぐこ、えだがあ」といってくるのだ。そのときによってちがうが、
「じぇんこ(おかね)つかわねが」と「なまはげ」がいうと、子どもは、
「つかわぬ」とこたえる。それで「なまはげ」はかえっていく。でるときに、家の人は、しょってきた俵に、モチか、ミカンをいれてやるのだ。
 みんな、この行事に親しんでいる。この行事は、これからあとにずっと残ってほしい。ぼくも早く中学生になって「なまはげ」になってみたい。//

2022.8.20Rewrite
2020.9.4記す

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