自治会または町内会というのは、全国に30万あるらしい。この数字が多いのか少ないのか、わからない。区長を地区代表者とする農村、大都会のマンション、入会(いりあい)が存続している百万都市の自治会、10軒に満たない過疎地域の集団や限界集落、”自治会”と言ってもとてもじゃないが一括りにできない。
そんな総論を論じるつもりはないし、研究者でもないので、偏狭な体験から書き綴ってみたい。そして思うに、一括りにできないはずなのに、ある地域の、さまざまな年齢層を、自治という名目でまとめあげようとするには無理ではなかろうかと思えてしかたがない。「自治」は目標であって、しかし、自治の実践は程遠い。であれば、なぜ「自治会」というのだろう。町内会は古くさいから、自治会というほうが進歩的なのだろうか。少々、自治会の取りまとめ役を経験して思うに、呼び名はなんであっても”辺境”でしかない。
◇
社会的行動をするミツバチは8の字を描いて蜜のある場所を仲間に知らせるという。ライオンもゴリラもあらゆる哺乳類は家族で子育てをする。育った子は自らの家族をつくる。ヒトも同様で脳科学では人間の「つながり」を説明する。つまり、ひとりでは生きてゆけないのだ。
人間の社会は高度に進化し、二家族であっても千や万単位でもつながりの仕組みを模索する。しかるに、自治会加入率という数字がある。つながりの必要を求めない家族または個人が存在するということか。自治会に加わりたくない自由はあって当然だ。個人の生き方は強制されるものではない。だが、地方自治体が自治会の加入率を発表したりしている事実は、何が言いたいのだろう。「加入率」は何によって算出されるのか。
自治会、町内会、あるいはそれら地域(地縁)社会組織は、ひとり一人の自由を保障するしくみといえるだろう。その「しくみ」について、地方自治体など公的組織が、「加入の任意性」を根拠に加入率を算出・公表するということは、公共の福祉に反することではないか。加入の任意性は個人の権利に属することで、非加入の意思を表した個人を含めて共同体は成り立っている──ことを排除していないとわたしは考える。
◇
したがって、非加入意思を表した個人を含めての地域自治組織について、以下、論じる。
メッセージの受発信について考えてみたい。わたしたちは生きている限り「沈黙」してはいられない。常に何かを求め何かを伝えようとする。しかし、すべてを受け入れることはできず、すべてを発信することもできない。そこに選択がある。
自治会は行政(たとえば、「市」)と委託事務契約を結ぶ(結ばされる)。これによって、掲示や回覧ときには全戸配布(家庭ごみ収集の通知など)手段による広報を引き受けることになる。発信の肩代わりを負う。
さて、実際のところ、掲示物を自治会構成員は見ているのだろうか。周知(衆知)されることになるのだろうか。自治体は発信の責務を果たしたことになるのだろうが、受けとる側にどれほどの効果があるかは問われていない。掲示する事務委託までは実行できそうだが、その効果を検証する手だては講じられていない。
いわゆるPDCA、計画P・実行Dまでは担保されているが、評価C・改善Aの経過は見られず、ほっ散らかしだ。
たとえば、催事の一枚物ポスターであれば、テーマと日時と場所があれば事足りて掲示効果は期待できるだろう。確定申告の受け付け告知や議会日程など、どれほどの関心を誘うかは疑問だが、掲示による告知は必要かもしれない。
問題は「回覧」。わたしの居住する集合住宅は250戸を超える。これを24区画に分け回覧を実施している。10戸超を平均7~10日でまわるが、1か月経過してもまわらないところが発生している。長期の留守宅、転居等による空き家、入院等々。事前に通知があれば回避可能だが、毎月実施される回覧のほぼ毎回遅滞が生じている。
「回覧」というのは「ハンコついて(サインして)まわしておけば、いい」という慣習になってしまっていて手許を離れればどうでもいい。内容物への関心度や重要性というファクターもある。ある福祉系組織は8ページのA4判冊子を回覧に供してくる。(あとでゆっくり読もう)という気持ちになれば回覧のスピードは一気に落ちる。
「全戸配布」というのもある。250戸超の集合ポストで投入作業に要する時間は10分ほどだ。郵便室とも呼ばれるその場所は仕切られた半閉鎖空間で、投入されたチラシ等が、不要と思われ、至る所に放置される。事実上、ゴミ化する。もちろん、節度を守り持ち帰る人が大半だ。一部とはいえ、散らかされたチラシは見苦しい。「不要なチラシ収集箱」を設置したところ好評ということになったのか、大量のチラシ等が集まる。月一度の資源回収に出す。優に30kgを超え、日々1kg超がゴミ化している。
個人名が記されたもの、つまり、ダイレクトメールなど個人の郵便物を入れないで、と注意書きをしているが、特定世帯はおかまいなし。およそだが、全戸分の半数もしくは四分の一が捨てられている。結果として、全戸配布効果はあるのだろうか?不動産業者は一戸でも商取引が発生すれば宣伝効果があるのかもしれない。とすれば、ゴミ化方式は止まないだろう。
大切な告知であっても、一割から二割は捨てられている。
◇
自治会費負担をしないで加入を断ると、ごみ捨て場にごみを出すな!というトラブルが発生している。「生活」をすれば少なからずごみは出る。衛生の観点から共同体は、ごみの始末を事実上義務化されている。生活者からすれば、ごみを適切に放棄することは権利でもある。その権利を加入・非加入の区別で制限することは、大袈裟に言えば、健康で文化的な最低限度の生活(生存権)を侵害することでもある。
一方、自治会加入していても、ルールを守らないごみ投棄はゆるされない。要するに、自治会加入の是非を問うことは、合意のもとで成り立つ環境衛生や福祉、安全課題を複雑にするだけである。
◇
自治会の役割・仕事とは何であろうか。輪番(たとえば一年交代)で引きつぐ任務を前年どおりこなせば、やがて過ぎ去る。辺境を引き受けた気持ちは同情できる。
では、何を引きつぐのか。伝統や年中行事であろう。この議論は面倒なので、避ける。しかし一点だけふれておきたい。社寺のかかわる宗教行為に、自治会が主体的にかかわることは信教の自由にふれる。具体的には、自治会が預かる共有資産(現預金など)を地元の社寺とはいえこれに出資したり費用負担に応じることは慎重を期する。このことを除けば、好みの違いはあるものの伝統を重んじることに異論はない。
自助・共助・公助の言葉を好んで(?)自治体役人はつかう。そのうち「共助」は「ともに助けあう」と理解していたところ、それは違うと、市幹部職員を歴任したある方が言う。共助は社会保険など相互扶助のことで制度設計がともなう。「互助は忘れられている」と元幹部職員は言う。互助こそが、ともに助けあうことらしい。ということは、自治会の役割とは、互助なのかもしれないとわたしは思った。だから、自治会は忘れられた互助の役割を担わされている。それで、辺境なのだ、なるほど。
消去法で、自治会の仕事を考えてみた。自治会に与えられている互助の中身。まず、前述した掲示・回覧など告知に関すること、そして、ごみの問題。加えて、防犯や災害に対応する安全な暮らしの確保。
少子化の表れだろう、大都会でも子ども会が消えている。人数が減っただけではなく、世話をする人がいなくなったからかもしれない。学校PTAの廃止も耳にする。つまりは、互助の欠如ということか。災害ボランティアは既成事実になっているが、古典的ボランティアは衰退の一途だ。
◇
辺境の自治会役員を引き受けるのは、誰だ。これは、役員のなり手がいないという話と同じ意味になる。「元気な高齢者(役員)」が元気な高齢者を相手にして取り仕切っているのが自治会──というのが、わたしの見立てである。申し訳ない言い方になるが、元気でない高齢者(あるいは興味のない人)は参加できない(参加しない)ということから見棄てられている。ということは、誰のための自治会なのか? ということでもある。
老人クラブ(敬老会)のような例外もある。それでも、先のPDCAになぞらえれば、計画P、実行Dまでは進められるが、掲示・回覧と同じく評価C、改善Aに意が尽くされていると思えない。つまり、伝統ほどではないが、今までやってきたことの繰り返しにすぎない。お世話されている方たちには申し訳ない言い方になるが……。
お盆の行事に精霊流しというのがある。自治会の担当業務ということで参加した。川に流すと回収に手間がかかるようで、川の流れが臨めるところ(土手や堤と呼ばれるところ)に、臨時の受付テントが設置された。お供物の数々が持ち込まれる(生ごみ回収のルールに従う) 市担当者が大きなダンボールを、見計らった数だけ事前に置いて行った。
ろうそくが灯り、スピーカから読経が流れる。ある程度集められたところで、自治体が派遣した回収車にダンボールが積み込まれる。伝統行事は滞りなく行われる。これを辺境と言えば、叱られるかなあ。
◇
では、自治会や町内会など地域自治組織を「辺境」ではなく、暮らしの要(かなめ)、少なくとも辺境から救い出す方法はあるのだろうか?
さりとて、対案を思いつかない。
むりやり思いつくことは、少子化だからこそ、子ども会があってよいとわたしは思う。子どもが健やかに育つまちづくりが基本だろう。子ども会の世話なら、若い人たちも参加するだろう。それは、やがて、まちづくりの担い手となるかもしれない。子ども会に限らず、地域自治組織は、「人育て」優先機構であって欲しい。
2026.2.27記す

