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ままごと遊びにつかえる草花

あかまんま | イヌタデ

イヌタデ「あかまんま」は幼児語。あわじ花さじき。2015.11.4撮影

「あかまんま」は赤飯のこと。イヌタデの花に見える赤い部分は実。花弁はなく、がくが赤い。がくを指やてのひらですりつぶすと赤飯に似た茶褐色のタネが姿を見せる。これを赤飯に見たてて遊ぶ。

中田幸平『野の玩具』中公新書 1974年
p108
//イヌタデはタデ科の植物であるが、食用になるタデと異なり辛味がなく刺身のツマにもならぬことから、犬という動物の頭名をつけられている。この草は全国にわたって路傍やひなたの空地などに自生し、晩夏から秋深く霜の降る季節まで紅紫色の花穂が咲きつづける。子どもたちが秋草の中にこれを見つけて木蔭で遊んでいたママゴトの季節から、ひなたを求めて筵〔むしろ〕などをひろげる秋日和まで、イヌタデは至るところに生えており、ママゴトの材料になった。それも赤飯に似たところからアカマンマと呼び、なくてはならぬ花であった。//
※「花穂が咲きつづける」とあるが、イヌタデに花弁(はなびら)はなく、外見の赤色は萼(がく)。それゆえ「咲きつづける」。

この本に「ママゴトとイヌタデ」の章がある。p101-122

ままごと

中田幸平『野の玩具』中公新書 1974年
p108
//さて、この花穂がアカノマンマ、オコワクサ、アズキノマンマなどと各地の子どもに呼ばれながら、ママゴトの材料に愛用されはじめたのはいつごろからであろうか。調べてみようとしたが、意外にその事績が記されたものはなく、それどころか、ママゴトのことを記載した文献ですらあまりない。そのために私はこの項を進める意味で、まずママゴトと子どもの世界を手始めに考察しようとした。//

p108
//遊戯史の研究家、酒井欣氏『童戯』によると、ママゴト遊びが史実として現れたのは、江戸初期の『向陽軍艦』に、織田信長が幼少のころ、尾州治黙寺へ手習いにあがったとき、手習いをそっちのけで、鮒を釣り、これで膾(なます)を作って款苳(ふき)の葉に盛って遊んだことが誌されているのが、はじめてらしいということである。このことは『嬉遊笑覧』にも記載されているが、はたして現代でいうママゴトの概念に当てはまるかどうか。そこにはママゴトという文字も見当らない。//
p109
//この後、寛文11年(1671)刊『掘河百首題狂歌集』に収められた若菜の狂歌があり、その中に

七草にままごとをするわらはべの 髪さきみるもつめる鬐

とある。おそらくはこの歌はままごとという文字の現れた始めではなかろうか。これは小児の前髪、または剃り残しの髪をいっているらしく、七草を材料にママゴト遊びをする子どもが、若草も髪もきれいに剪んでいるという意味である。残念なことにイヌタデでなく、若菜であるから春の七草であった。//

p109
//これより7年後、延宝6年(1678)の『江戸八百韻』何袷の巻には、

蜆石花(かき)から是にさへ月
さむしろにまま事乱す夕景色

とある。前句は、蜆と牡蠣殻の中に水がたまり、それに月がうつっているということであるが、付句が、夕景色となって子どもたちがママゴト道具を散らかし放しにしたまま家に帰ってしまった情景を詠っている。この句は、このまま現代の子どもの遊び生活をあてはめてみても、世の中は変りながらも生きているような気がしてならず、またそうあっていてほしいと願っている。

p110
//この句の出た翌々年、延宝8年刊の池西言水著『誹諧江戸弁慶』に収められた重陽の節句の句に

まま事や貝から咲きしけふの菊  水流

とあり、貝殻に花をさし、おそらく残りの菊でママゴト遊びをしている子どもたちを詠んだものであろう。このほか、くだって明和2年(1765)の『誹風柳多留』初篇に収める川柳にも、

まま事の世帯くづしがあまえて来

などとある。
 以上のように、寛文年間以後、これまでなかったママゴトの事蹟が急速に列挙されてくると、このころから子どもたちの間にママゴト遊びが盛んになったかのようにうかがわれるが、私はこの寛文年代以前にも大いに遊ばれていたものと思う。それはママゴトによらず、賭博行為といわれた穴一(ビー玉遊びの始め)や海螺独楽(ばいごま/ベエゴマ)などがはじめて文献に登場するのも、これより以前の寛永年間(1624-44年)であるからである。//

p110
//ママゴトが寛文年間から俳諧などに取りあげられるようになったのは、一つには連歌の発句から独立した俳諧が自由な眼で町人的題材を詠い、町人の生活感があふれる作品が登場したからであるが、もう一つ、このころは子どもに対し町人の親たちの考えが変化した時期でもあった。たとえば、これまでの子どもの教育が寺院の系統をひく寺小屋であったが、この時代になると、手習師匠をもって身を立てる者がでてきた。それだけ町人の間に子どもに対する関心がたかまったともいえる。この後、こうした気運はママゴト遊びにも一種の教育的意義を見出し、婦徳の涵養に根ざす幼女の遊びとして位置づけるようになった。//

p111
//元禄末年(1703)に成った香月啓益著『小児必用養育草』第六に、
「女(め)の童(わらは)二、三歳より、炊事といふ戯れをなす、これ土座に筵をしきて、おなじ歳比の小児あつまりて、飯炊(いひかし)ぐまねをする事なり、いたつて鄙賤なる事なれ共、銭英の説に、小児は土と水とを常にもてあそばしむれば、その熱欝の気散じて、女は、内に治むる事をつかさどる故に、かく飯炊ぐまねをなさしむる事なるべし。」
と記載されるほどになった(前田勇『児戯叢考』による)。そしてこの書の後、わずかの年月で、かの有名な児童教育書『和俗童子訓』(貝原益軒著、宝永7年刊)が著わされたのである。//
p111
//子どもに対する関心は、寺小屋が次第に普及し増加の一途をたどることからも明らかで、宝永から百年あまり後の天保-安政年代では、寺小屋の数が一万五千をこえたといわれる。武士の子は藩学や郷学塾で儒学を学んでいるが、庶民の子は庭訓往来や消息往来などという「往来物」と呼ばれる教科書で学んだ。//
p112
//その往来物は他種目にわたり刊行され、その普及は著しかったという。しかしこの教育は男の子を中心としたもので、女の子のものでなかった。さきの『和俗童子訓』の中にも、後に『女大学』という冊誌が刊行された原型ともいう「教女子法」の項があり、その冒頭には「ひとへにおやのをしへを以て身をたつるものなれば、父母のをしへ、おこたるべからず」と記載されている。ここにある女の子の教育は親の教え一つで育つものとされ、寺小屋での教育ではなかった。その意味で、『小児必用養育草』のママゴト遊びの訓戒はそうした風潮を助長するものであった。//

p112
//以上がママゴト遊びの文献と児童教育の様子のあらましで、総じてママゴトとは、封建社会にあっては婦徳の学習遊びであり、またそのため親たちもこれに対し寛容であった。//

2023.10.19記す

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