||||| 新渡戸稲造『武士道』第8章:名誉 |||

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名誉

律すること、我慢すること──こそ、誉れあれ

 第8章「名誉」。武家の子として生まれたからには……、これは〈武士=名誉〉と等号で結ばれ、育ちではなく格式だった。したがって、身分制度のない今日で言うところの名誉とはまったく違う。生まれながらにして名誉をまとっていた。//あたかも彼が母胎の中から名誉をもって養われていたかのごとく// とあるように。しかし、
 //寛大、忍耐、仁怒(じんじょ)のかかる崇高な高さにまで到達したる者の甚だ少数であったことは、これを認めなければならぬ。何が名誉を構成するかについて、何ら明瞭かつ一般的なる教えの述べられなかったことは頗(すこぶ)る遺憾であり、ただ少数の知徳秀でたる人々だけが、名誉は「境遇より生ずるのでなく」、各人が善くその分を尽すにあることを知った。//

 つまり、武士は我慢が肝要ということだ。侮辱されたあまりの短気は不名誉なり。武士の名に恥じる。

 //「ならぬ堪忍するが堪忍」と。偉大なる家康の遺訓の中に次のごとき言葉がある、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……堪忍は無事長久の基……己れを責めて人を責むるな」。//
 //孟子もまた忍耐我慢を大いに推賞した。//……//小事に怒るは君子の愧(は)ずるところにて、大義のための憤怒は義憤であることを教えた。//

 謂わば名誉ある者は律する心が第一ということか。「名誉」の章は、この名に相応しく戒めが数多く掲げられている。
 //武士道がいかなる高さの非闘争的非抵抗的なる柔和にまで能く達しえたるかは、その信奉者の言によって知られる。例えば小河〔立所〕の言に曰く、「人の誣(し)うるに逆わず、己が信ならざるを思え」と。また熊沢〔蕃山〕の言に曰く、「人は咎(とが)むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒りと慾とを棄ててこそ常に心は楽しめ」と。//

2019.11.18記す

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