||||| 新渡戸稲造『武士道』第11章:克己 |||

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克己

〈克己〉……自分に勝つということ

 第11章「克己」。これを新明解国語辞典第三版で調べると「自分のなまけ心や欲・邪念に打ち勝つこと。」とある。
 武士道において克己とは何か。それは、──感情を面(おもて)に現わすは男らしくない──
 ──挙止沈着、精神平等であれば、いかなる種類の激情にも擾(みだ)されない。──
 ──男子でも女子でも己れの霊魂に感激を覚ゆる時、その最初の本能としてその外に顕わるることを静かに抑える。──とある。

 ──蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら── この歌は長閑(のどか)な風景を詠んだのではない。我が子の死に遭遇し、その”不在”をいつもの如く蜻蛉釣りに出かけたと我が身を慰めた。
 武士道の、本書で伝えられることには、身が引き締まる。再三言うが、法の統治ではなく主君の統治がもたらすその果実であることは間違いない。今日でいうところの、人権・平等・幸福の追求が武士道にはない

 精神の強さが試されるなかにおいて、惑わすのは男女の仲だった。──アメリカ人はその妻を他人の前で接吻し、私室にて打つ。日本人は他人の前ではこれを打ち、私室にありては接吻する。──
 ──自然的感情の発動を抑制する努力──とは何か。少年の少女に出会うそのとき。──かかる努力が彼らの神経を遅鈍ならしむか、それとも一層鋭敏ならしむかは、生理学上の一問題である。── 「克己」は恋心には勝てない、ということか。

2019.11.18記す

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