岩崎書店 1974年発行
おはなし日本歴史20「日本の敗戦」より
日本の降伏がまぢかにせまっていたころの7月17日、アメリカ・イギリス・ソビエトの最高指導者が、ベルリンにほどちかいポツダムの町のふるい宮殿で会議をひらきました。
ソビエトのスターリン首相、イギリスのチャーチル首相、それにアメリカからは、4月になくなったルーズベルトにかわるトルーマン大統領が出席しました。
このポツダム会談の中心の議題は、日本との戦争をどのようにしておわらせるか、戦後の処理をどうするか、ということでした。ここには、中国の代表は出席しませんでしたが、会議は、重慶にいる蒋介石とはじゅうぶんにれんらくをとりあってすすめられました。
会議のけっか(ポツダム宣言)は、7月26日、アメリカ・中国・イギリスの連名で発表されました。ソビエトは、対日戦参加ののち、この宣言にくわわることになります。
ポツダム宣言
アメリカ大統領・中華民国主席・イギリス首相は、その数億の国民を代表してそうだんしたけっか、日本に、戦争をおわらせるチャンスをあたえることに同意した。
アメリカ・中国・イギリスの陸海空の大軍は、日本に、さいごの攻撃をするじゅんびをおえた。ナチス=ドイツの無意味な抵抗は、国土をたいそうあらしてしまった。これは、日本国民にとって貴重な先例である。いま、連合国が日本にくわえようとしている力は、ドイツにたいするものより数倍もおおきいものである。
われわれは、日本に、つぎのようなぎりぎりの条件をだす。
- 日本に平和な秩序がうちたてられ、戦争するような力がとりはらわれるまで占領をつづける。
- 日本がかつて外国からうばった領地は、もとの国にかえさせる。日本の主権がおよぶところは、本州・北海道・九州・四国と、われわれがきめた島じまにかぎられる。
- 日本の軍人は、完全な武装解除ののちおのおのの家庭にかえり、平和で生産的な生活をするチャンスがあたえられる。
- われわれは、日本人を奴隷のようにしたり、ほろぼしたりしようとはかんがえていない。しかし連合軍の捕虜を虐待したものもふくめて、いっさいの戦争犯罪人をきびしく罰する。また日本政府は、日本国民の民主主義的なうごきのじゃまになるものをとりのぞかなくてはならない。言論・宗教および思想の自由など、基本的人権をとうとぶようにならなくてはいけない。
- 日本は、戦争で被害をあたえた国ぐにへ、賠償(つぐない)ができるていどの産業はゆるされる。しかし再軍備するための産業はゆるされない。また日本は、将来、世界各国との貿易がゆるされる。
- 占領の目的がなしとげられ、日本国民の自由な意思で、平和をねがう責任ある政府ができたら、連合国の占領軍はすぐ日本からひきあげる。
われわれは、日本政府がすぐに、すべての日本軍の無条件降伏を宣言し、誠意をもって、ことにあたることを要求する。そうしなければ、日本は、すぐさま、てってい的に破壊されるであろう。
このポツダム宣言は、ただちに全世界に報道されました。
日本へは、中立国スイスのチューリヒにあった同盟通信社から電報がはいり、ラジオ(7月27日)や新聞(7月28日)で報道されました。
「ポツダム宣言など、ただ黙殺するのみです。われわれは、戦争をやりぬくために、あくまで努力をつづけます。」
これが、日本の首相鈴木貫太郎の発表でした。連合国の指導者たちは、この発表を、日本がポツダム宣言を拒否したものだ、とうけとり、
「われわれもまた、おおきなぎせいをはらわねばならないが、日本に壊滅的な打撃をあたえて、一日もはやく戦争をおわらせねばならない。」
と、決意をかためるのでした。
日本政府が、ポツダム宣言をしった日から、ポツダム宣言をうけいれて無条件降伏をする8月15日までの20日間に、日本国民はどれだけのぎせいをはらわなければならなかったでしょうか。
以上 p24-27
ポツダム宣言を受諾し、
日本が敗戦を認めたのは、8月14日である。
2019.7.16記す