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  • ジャック・ル=ゴフ
    • 時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する
    • 藤原書店 2016年

p110
〔ヨーロッパで〕〔時代区分の〕中世に暮らした人々は彼らの時代が中世と呼ばれるようになることを知らなかったとしたうえで、彼らには長い時間のなかに位置づけて自分たちの時代がどのように見えていたのかと、〔中世思想史の専門家〕ジルソンは自問する。長い時間、それは年代記作家にとっては歴史であり、大多数の人々にとっては記憶のことだ。

p44
あらゆる時間概念は合理化され説明されて「歴史」になりうる。こうして、人間社会のもつ記憶のなかでも、歴史家の仕事のなかでも、ひとつあるいは何通りかの時代区分が生み出されるのだ。

 同じ生活空間、同じ時系列でのイベントの場合、それは記憶ということになる。同じ時系列であっても、生活空間が異なれば(例えば異国であったりすれば)記憶に留まることもあれば直ちに「歴史」になることもあるかもしれない。
 自分がこの世から消えれば、記憶は消え去るが、歴史も消滅する。それは「自己」に限られ、近親者において「自己」の死を記憶に留めるだろうが、歴史の秩序を乱すことにならない。

 自身を事例にするのはよくないかもしれないが、人間の歴史は、それぞれ個の時間的連続の結果であって、たまたま歴史に名を残す者であれば、連続性を認めないわけにはいかないだろう。日本の場合、江戸時代、室町時代、鎌倉時代は、幕府が置かれた地によって時代が名づけられている。平安時代、奈良時代、飛鳥時代は、貴族など国を統治してきた者の居住地で名づけられている。征夷大将軍や天皇の支配において時代が区切られていることを、私は疑問に思っていた。天皇には女性もいたが、征夷大将軍は男性ばかり。歴史に女性が名を残すことは時代区分からは排除されている。

 などなど、私はかねてより歴史を学ぶときの時代区分に疑問があった。

(参考)歴史 ── BookBoat 選書カテゴリー

p100
いまや私は、二つのことを証明しようと試みなければならない。まずルネサンスは、たとえその重要性がいかなるものであったとしても、歴史的持続のなかで個性を与えられる資格をどれほど有していても、私に言わせれば特別な時代ではないのである。〈ルネサンス〉とは、長い中世に含まれる最後の再生(ルネサンス)のことなのだ。そして、文化がグローバル化し西洋が中心的地位を失ったいま、歴史の時代区分の原則は今日問題視されるようになっているが、時代区分は歴史家にとって必要な道具だということを、私は示したいと思っている。ただ、時代区分はより柔軟に用いなければならない。人が「歴史の時代区分」をはじめて以来欠けていたのは、その柔軟さなのだ。

p182
時代は発展のうちにある。なぜなら、歴史は静止することはないからだ。この発展のさなかに、時代が再生(ルネサンス)をともなうことがある。それは、ときには輝かしい再生ともなりうる。それはしばしば過去に立脚したものとなる。その時々の人間が過去に魅了されるからだ。しかしこの過去が役に立つのは、新しい時代に向けた跳躍を可能にする遺産としてにほかならないのだ。

p177
人間主義は長い発展の産物であり、そのはじまりは古代に求められる。
〔脚註〕
ここでいう人間主義 humanisme とは、一般的にはルネサンスの思想的特徴とみなされ、日本語では「人文主義」と訳されるもののことである。しかしル=ゴフはこれを、中世にはすでに存在していた西洋の思想的伝統ととらえなおしているわけである。

p183
今日の伝統的な歴史学が特別な時代としてあつかうルネサンスとは、私の目には長い中世に含まれる最後の小時代にほかならない。

p183
西洋の伝統のなかで、歴史の時代区分がギリシア思想(ヘロドトス、前5世紀)や旧約聖書(ダニエル、前6世紀)を起源としていることはすでに見た。しかし時代区分が日常生活に入りこむのは、かなりたってのことだ。18・19世紀に文学ジャンルとしての歴史が教育科目に変化したとき、時代区分は欠かせないものとなった。人類は、みずからの進化を包んでいる時間を支配したいという欲望、必要性を抱いている。時代区分はそれに応えるものなのだ。

p184
長期持続のなかには、時代を受けいれる余地がある。歴史は、知的であると同時に肉体的でもあるような生きた対象となりうる。そんな対象をあつかうためには、連続性と不連続性を組み合わせることが必要となるように思われる。
 それこそが、長期持続と時代区分を結びつけることでもたらされるものなのだ。私はこの本では、時間の長さ、歴史の進展の速度の問題を素通りした。おそらくそれは近代以前には問題にならないからである。中世やルネサンスにとって、近現代にとってより重要なのは、むしろ時代の移り変わりが緩慢であることである。革命は、存在するとしてもほんのわずかである。フランソワ・フュレは、フランス革命はほぼ19世紀全体をとおして続いたのだという話を好んでくり返していた。同様の理由から、ルネサンスを特別な時代ととらえる者たちを含む多くの歴史家が、「中世とルネサンス」という言いかたをしている。そしてもしこの定義によくあてはまる世紀がひとつあるとすれば──それこそがこの世紀の豊かさをつくりだしているのだろう──、それは15世紀である。

p185
(歴史をあつかいやすく豊かな価値をもたらしてくれる時代区分について)長い時代には重要な転換期が含まれている。この転換は意味あるものだが、最重要ではない。これが小時代をつくりだすのであり、中世にとってはそれが「ルネサンス renaissance」と呼ばれるものだ。再生を意味するこの呼び名には、新しいものを感じさせる naissance(生)と、黄金時代への回帰の観念をあらわし、過去との類似関係をほのめかす接頭語 re (再)を組み合わせようという気づかいが込められている。

p187
グローバル化と画一化を混同してはならないのだ。グローバル化には二つの段階がある。まずは互いに知らない地域や文明のあいだにコミュニケーションが生じ、関係が確立される。つづいて、吸収され溶解していく現象が起こる。今日まで人類が体験したのは、このうちの第一段階のみである。

p195 「訳者あとがき」で。つまり、訳者は……
たとえば日本の歴史においても、明治の文明開化や第二次大戦後の断絶を過大評価すれば、同じような弊害を生むことがありうるだろう。

──と記している。江戸幕府が崩壊し明治の文明開化が訪れたが、私はこれは連続していると考えている。ときの政府は長州主導でこれが崩壊したのはアジア太平洋戦争で敗戦したときではないだろうか。ここで不連続が生じる。

 この本は親切だ。途中、適度に快速で読んでも、170ページに始まる「これまでのまとめ」で主張を集約してくれている。「歴史」を民に託そうとしている著者の姿勢が読みとれる。

2021.5.3記す

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