||||| かこさとしがいう「遊び」の意義 |||

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 かこさとし(加古里子)は、── p355
いわゆる有識者によって、遊びが子どもにもたらす効用実益が、研究、調査、論述されている。その結論を列記すれば次のようになる。

文献:加古里子『伝承遊び考 4 じゃんけん遊び考』小峰書店 2008年

① 心身の発達、運動・言語などの能力促進。
② 情緒の安定、情操の適応涵養(かんよう)。
③ 社会規約の遵守と集団行動での協調。
④ 自立、主体性の確立と伸展。

 上記4項目を挙げた上で、── 同ページ
 なるほど、遊びの中で、こうした成長が準備され、伸長していくことは事実であり、まことに結構で問題はない。ただこうした遊びの効用成果は識者や大人の立場からであって、当の子どもは、この四項目に該当したということであって、子ども自身、決して腕を強くしようと「じゃんけん」をし、言葉遣いがうまくなろうと掛け声を叫んでいるのではないことをはっきりさせておかねばならない。
 このことは「遊んでいた」のに四項目が十分達成されないからといっても、それは遊びのゆえでも当人のせいでもないということである。まして子どもの遊びに、大人が介入し、四項目を達成させようとするなどは、本末転倒も甚だしい。

 保育指針等で上記の4つが標目として挙げられていたら、保育士等つまりおとながめざすことになる。まさに読み方注意で、おとなが目標とすることに反対しない(まことに結構で問題はない)としながらも、(遊びの場に、大人が介入し……本末転倒も甚だしい)は鋭い指摘としておかねばならない。

 加古里子は上記4項目に加えて、次の3つを加えている。── p356

自発的実体験による地域環境の理解認識。
幼少児を含む連帯仲間意識と共生行動。
反道徳への傾斜発生と低俗性への関心発散。

 続けて ── 同ページ
 説明を加えれば、子どもは遊びの場で虫を追い、草をつむが、命ぜられた受身の、採取行動ではないから、そこで得た知識や印象は、後年の自覚に結びつき、人格形成に連なるのがの項目である。
 また子どもの遊びは、単なる競技、技くらべとちがい、能力や年齢に歴然と差がある幼児や年少児も排除せず、仲間として遇し、その対処処置に各種の配慮工夫をめぐらしているのがの項目である。日本の大人社会で、「共生」なる語や意識が市民権を得たのは、ようやく1990年代に入ってからであったが、子どもの遊び世界では、1900年以前からずっと「共生」が貫かれていたのである。
 こうしたの項目は、実際の子どもの遊びをよく観察すれば、すぐに知ることができるが、すでに前期の4項目に含まれると強弁する向きがあるかもしれない。しかし⑦の項目は、なぜか無視され、ほとんど明示されたことはなかった。
 しかし子どもの遊びには必ずこうした部分が付帯していて、この「じゃんけん」においても、208ページ、245ページあるいは309ページで記したように、長短の掛け声に俗悪、下品、わいせつな語や詞句をまぎれ込ませ、それらを発声唱和して騒ぐのは、子どもの世界では通常のことである。
 そしてこれらのことは、成長期の子どもの一側面であって、遊びの大部分は①~⑥の項目のよい成果につながっているのだから、放っておけば卒業してゆくものだとする論もある。
 基本的な対応としては是であるが、もっと子どもの立場に立った、発展性のある対応はないのであろうか

◇ ◇

「はじめは ぐー」(最初はグー)を排そう!

 上段の項目③(社会規約の遵守と集団行動での協調)を意識したかどうかは知る由もないが、「はじめは ぐー」から始まるじゃんけんのしかたは間合いを強制的に合わせさせる。
 じゃんけんで間合いを主導するのは、その遊び集団のリーダー格だ。加古里子は「じゃんけん」の原資料について、1948年から2001年までの50年余をかけて、その数10万1000余を集めたと記している(p10)。実際、冒頭掲出の文献には、おびただしいじゃんけんでつかわれる掛け声が収載されている。一級の民俗資料といえるだろう。ここに掲出されている掛け声を主導したきたのは遊び集団のリーダー格だった。
 それが今や(2021年)小学生からおとなまで、「はじめは ぐー」の掛け声に席巻されている。文献p285で「長介ジャン」も採取されている。本書では「いかりや長介」の名は登場するが、「はじめは ぐー」の発案者(本書の蒐集によれば、発案の前にひな形がすでにあったと思われる)とされる「志村けん」の名はない。テレビで人気を集め、この発案は全国区となってしまった。一時期の流行におさまらず、今も強い影響を残している。
 「子どもの遊び」について考察するとき、リーダー格を失った遊びの代表といえる「じゃんけん」のていたらくを私は悲しく思う。「はじめは ぐー」(「最初はグー」が実際の多くのようだが……)を除外し、そうではない掛け声を復活させてほしいと私は願う。

遊びの主体性とサブカルチュアー

 漫画はかつては貸本屋で借りて読むものだった。一日、5円や10円で借りた。漫画には罪悪感が伴った。借りて読み、返してしまえば何も証拠は残らなかった。私が子どものときに通った貸本屋は2坪くらいの広さだっただろうか。それがあるときから、照明の明るいところで堂々と読めるようになり、アニメは輸出文化に成長し優等生となった。アニメ文化を論じるほどに私は知識なりその周辺をまったく知らない。アニメ(動画)と漫画本を同一視してよいのかもわからない。しかし、漫画がサブカルチュアーのジャンルから外れ、カルチャーの一翼を担うことになって、漫画の”いのち”がそがれたのでは?と密かに思っている。
 加古里子の論じる⑦の項目は、このサブカルチュアーと通ずると思った。子どもを善導したい・善導すべきと信じているおとなは、サブカルチュアーを受け入れることができない。なんとかして正統的に評価しなくてはならない責務にかられる。加古里子は『どろぼうがっこう』ほかの絵本で、子どもの遊ぶ心(サブカルチュアー)を守ろうとしてきたのではないかと思う。

子ども集団の妙

 ⑥の項目について、その説明はすでに上述している。子どもどうしの遊びは、ゲームで遊ぶときのように「遊び方」の諒解から入らない。先のニュータウンでは、遊び方が相違するとき、あるいは諒解しないとき、たまに遊び方の説明が入ることがあった。
 しかし、じゃんけんの三すくみについて、説明することはない。共通だから、だ、そして、3歳や4歳から遊び集団に加わるとき、じゃんけんの三すくみ説明から入ることはない。大きいおねえちゃん、おにいちゃんから若干の説明が加わることもあるが、3歳や4歳が理解していると思われない。3歳や4歳は「ひよこ」などと認証され、ともに走りまわる。⑥の項目説明として、私からは以上をつけ加えておこう。

かこさとしという人

 「だるまちゃん」の絵本は幼児に人気。「かわ/地球/海/宇宙」の4部作からなる科学絵本は、人類をとりかこむ壮大な環境を小学生に認識させるとても為になるもので、SDGs理解の基礎知識にもなる。ページ数わずかな絵本であっても、膨大な資料を読み込み、かこさとしは創作してきたようだ。

 子ども(乳幼児を含めて)をよく理解されている。教育現場の先生経験はなく、大学在籍の(子ども対象の)識者でもない。東京大学工学部1948年卒。絵本作家の一人にすぎない。絵本作家でありながら、画家でもなく、イラストレーターでもない。だるまちゃんの絵本をはじめ、彼の絵は稚拙(にみえる。失敬!) でも、人気は絶大。
 「子どもの遊び」を研究するにおいて、氏の本を漁っているが、学術書の体裁を為していない。内容は「おかまいなし」というところが、かこさとしらしい。

 『日本の子どもの遊び(下)』(青木書店 1980年)のp50に、──今の日本の子どもが三ずの川を渡っている──とある。ギョッとさせる。「遊ばず・学ばず・手伝わず」のことなのだ。1980年に刊行された本なので、1970年代には起きていた現象ということだろう。それは、わたしのいろいろな調べと符号する。
 さて、この本の「学校と遊び」の節の小見出しに注目!
── 大人がいると遊びにならぬ
── 先験、先達者としての大人の義務
── 遊びにおんぶするな
── 子どものさめた目を知れ
── 遊びをつづっても授業にならぬ
── 遊びから技術を盗め
以上、なかなかの直球で、上記に記したところとも符合する。子どもを守らんが為、必死の提言になっている。

小見出し部分の本文 pdf

痛烈なる警告

加古里子『伝承遊び考1 絵かき遊び考』小峰書店 2006年
p595
//有り体に述べれば、私は本来、子どもの遊び世界に、大人は関与すべきでないと考えている者である。先達者としての指導、親としての訓育、市民としての教導等、なすべき事項ややりうる場があるのに、唯一子どもの自主自律にまかすべき遊びの場に大人が介入する必要はない。まして非行不良化の防止とか遊びを悪いものと良いものに二分し、善導矯正するなど、お節介の至りである。
 人間の子は、ほかの動物に比し「早産」とよばれるくらい、未熟未完成で出生する。したがって周囲の大人などによって、保護愛育されなければ、生命の維持ができない。しかし間もなく、二足歩行や自我が萌出し、数多くの経験と失敗を重ね、自分の好みや楽しみを増やしていく。そして家庭や地域の状況や、周辺の同輩や友人たち、さてはその時の自然や社会の動向の中で、遊びを知り、その楽しさにつれて心身を使い、考え、学び、きたえ、未知の経験と満足と疲労を得て、心地よい睡眠により次の日を迎え、成長してゆく。
 だが子どもはいかに遊びに熱中し、いかに巧妙美麗な遊びに酔いしれていても、やがては遊びを脱却し、遊びによって得たものを自らの成長の糧として、次の発展へと進んでゆく。
 見方をかえれば、遊びは成長していった子どもたちの「排泄物」といってもよいだろう。//

 「遊び」を議論すると、〈おとなの遊び〉〈おとなも遊ぶ〉などと派生するが、加古里子に沿えば、「子どもの遊び」はおとなのそれとは無縁であり、子どもの遊びを真摯に探究するならば、おとなのそれとは切り離して捉える必要がある。
 子どもから遊びを奪った結果、どうなったか。痛烈なる警告が以下である。

p588
//その大人たちが、子どもたちの教育目標を、自らがそうであったような、遊びや手伝いの必要性を無視除外し、ひたすら高額所得への最短路としての学習強制と、暖衣飽食・マイホームという利己中心に置いていたのを、いち早く見抜いていたのは子どもであった。自ら伸びよう、生きようとする途は閉ざされ、「お前の将来のためなんだよ」とおしきせの勉学がめざしているのは、親自身が失敗、破綻した人生目的ではないか。
 当然反発や、精神不安、ひきこもり、緘黙、家庭内暴力となり、学校ではいじめ、いやがらせ、さまざまな破壊、損傷事件や非行、暴行、淫行、私的制裁をおこし、学級混乱、学校崩壊をおこしてきた。学校関係者は、秘密裡に処置を試みるが訓戒や警告では追いつかず、応報の処罰や隔離排除、放逐となっていく。中でも親はそれまでの(一方的)愛育の意外な結果に驚き、強圧的指導と激しい体罰、虐待で屈服させようとする。体力的に未発達の子どもの場合は抑圧されたまま暴発の時を待つが、親より体力がまさっていれば、どのような噴出と連鎖となるかは、1990年以降の少年犯罪の事例を見れば明らかである。
 40年ほど前、絵かき遊びの歌詞に述べられていた強制学習と児童虐待が、現実の、普通の家庭の、普通の子どもの世界に出現してきたのである。
 そんなのは特殊な、ごくまれの、子どもか家庭に欠陥があるためだなどと、呑気な親は思うかもしれないが、生をうけた子どもが、生きてゆこうと自覚し、その目標を求めても見出せず、提供されるのは古びた、画一的なものでしかなく、挑戦する機会も許されない時、子どもはそのエネルギーを集中して、自らの生命を賭け、邪魔者を屠(ほふ)っても進もうとする。
 私は中学と高校の生徒の、赤裸々な心情を述べた文集を読んだことがある。学級の全員がこれからの人生についてどのように生きるべきかについて煩悶し、親や教師や政治家の行き方〔ママ〕を痛罵(つうば)していた。青年期としては当然であるが、その6割以上の子が、閉塞された状況を打ちやぶるため、自殺とともに殺人を何度も考えたことがあると述べていた。その後10年くらいの間に残虐悲惨な殺戮を行った少年Aや犯人H、さてはいかがわしい宗教集団の一員としてまったく悔悟の念なく殺人を行った若者など、次々おこった事件の主と、同じ事が文集に述べられていた。
 一皮むけば拝金主義の、楽をして金をせしめ、享楽にふけたいという浅薄な人生目標しか描けぬ親や大人に対しての真面目な批判であった。人間として自らの個性に合った生き方を探し求め、生涯かけて構築してゆく人生の意義を、適確正明に伝授できないでいる教育、経済、政治、社会への絶望の文であった。
 こうした状態は21世紀になった今も、そのまま続いている。50年前の「傷つけるヒマワリ」は、教育の怠慢、大人への警告。社会への予告であったのに、サインを見落したとは、慚愧の至りであった。//

2021.6.21記す

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