||||| 子どもは多様性そのもの |||

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 そもそも「多様性」とは何だろうか?
 「多様」を国語辞典以上の意味で考える必要があるのだろうか。「みんなちがって、みんないい」のフレーズは金子みすゞ(1903年生まれ)起原だ。
 国連が提唱しているSDGs(エス・ディー・ジーズ)は多様な社会の実現をめざしている。
 話を拡げるわけにはいかない。「多様」の価値は、100年を超える前から認めようとされていたし、地球市民の目標にもなっている。多様+性=多様性は、多様な状態を価値として認識しようということだろう。SDGsで押さえておく必要があるのは、多様であればなんでもよいというのではなく、地球温暖化の防止や食糧分配など人類の生存に最も影響がある自然環境の保全が最優先課題だ。

 多様性の理解はむずかしい議論だ。おとなにはむずかしいが、子どもは多様性そのものだと私は思う。小学生になって低学年から高学年に向かうなかで、急速に「多様性」はそがれる。学校教育は「多様性」を謳いながら、評価するという制約で多様性をそぎ落としている。遊びの再生、子ども期の再生を遮っているのは学校教育のありようだと私は確信を持っている。

 前回の砂時計モデルで記したように、多様を原理とした子ども(人間)は、成長するなかで”くびれ”を通過し、再び多様な人たちとなる。”くびれ”は、個々一人ひとり内発で生じるものがあるだろうし、家庭環境や社会環境が作用して”くびれ(制約)”になるだろう。
 「他者先んじて自己生ず」のように、自分という自覚は他者が刺激となって発生する。このようなあたりまえのことを無理に制約しようとするのが「無理」というものだ。
 王室や皇室は個(いのち)に極めて強い”くびれ”を課している。我々が結婚したり子どもを何人育てるかも”くびれ”になるだろう。しかし、”くびれ”は”くびれ”のままではない。時系列の一時期に “くびれ”が生じることは試練を課すということだろう。
 議論してしまうとなんだかむずかしいことになってしまうが、子どもは他者と遊ぶことでしばしばつまずき、多様性を学ぶ。

2021.12.1記す

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