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- 文献1
- 『うぬぼれる脳』NHKブックス 2006年
- ジュリア・ポール・キーナン他(2003年)
- 『うぬぼれる脳』NHKブックス 2006年
「自己と他者」または「他者と自己」、哲学にふさわしいテーマのようで、これを書名にしたものや内容とした本は多い。俗に「自分さがし」と言ったりするが、ここでいう「自己」や「他者」は、簡単なものではなさそうだ。
「自己」とは?
文献1の主要テーマは「セルフ・アウェアネス self awareness」で「自己覚知(自己に対する気づき)」と訳をつけている p4。自己に対する認識と言ってもよいだろう。這い這いしているあかちゃんに手を差し出して「おいで」と手招きすれば、ニッコリして力強く這ってくる。かわいい。おそらく親はあかちゃんの名前を呼んでいる。でも、あかちゃん自身はまだ自己に気づいていない。鏡に映し出されている”自分”を見て”自分”と気づいたときを、自己に対する気づきとこの本では記されている。それは、生後1年半を過ぎてから2歳前後ということだ。
4歳になって、「他者」の心を読む
3歳まではことごとく失敗するが、4歳の誕生を迎えると「他者」の心を読むことができるようになる。これを「心の理論」という。そして、他者の心を推測できることが、「自己」の存在証明になる。言うなれば、他者が存在することでもって、自己が存在する。自己意識が優先して他者を気にする、と思いたいが、じつはそうでない。逆なのだ。有り得ないことだが、他者がいなければ自己もない。
「死」の意味と「他者」
文献1によれば、自己を覚知するのは、正確にはまだよくわかっていないとしながらも、脳の右半球その前部と見当づけている。だから、その部分を損傷すると、自己を消失することがあるという。死に至らずとも自己を喪失する。他者の存在は消えない。
しかし、これは例外であって、多くは、みずから自己を喪失することで他者を認識できなくなる。言い換えれば、他者は自己とともに存在する。自己が消えたあとも他者は存在し続ける。
もう少し考えて……
つまり、突然の不幸に見舞われてはどうしようもないが、終静(しゅうせい)を思うとき、いま自分があるのは、他者の存在があったからだ。──ということは、生きてきた今までをやりっぱなしにしておかないで、いくらかでも後生に遺し伝える時間をもったほうがよい、ということかもしれない。
橘玲(たちばな・あきら)『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』幻冬舎文庫 2023年
p10★①
//脳は長大な進化の過程で、スピリチュアル(呪術的)なものとして「設計」された。
わたしたちにとっての世界(社会)は、「わたし=自己」を中心として、家族、友人、知人、たんなる知り合い、それ以外の膨大なひとたちへと同心円状に構成されている。他者を中心とした世界を生きているひとはいないし、もしいたとしたら精神疾患と診断されるだろう。//
※そうではないだろう。わたしも(あなたも)//他者を中心とした世界を生きている// と、わたしは考えている。他者を認識(意識)することが自己の発見であり、自己は他者によって育てられる。自己の身体は唯一無二だが、「自己」は「他者とのふれあい」のなかで多面的な自己を発見する。多面的な自己は精神疾患ではない。したがって、//同心円状に構成されている// の理解には注意が要する。
※自己は単数だが、他者は複数である。複数他者の一部を信頼し、あるいは、複数他者の一部とつながり、それらを核とした衛星軌道に単数自己は位置している、とするほうが、長大な進化過程の説明になるのではないかとわたしは思う。
p57◆②
//「人格(パーソナリティ)」とはあなたの内部にあるのではなく、身近な他者の評価がフィードバックされたものだからだ。//
p59◆③
//パーソナリティもこれと同じで、「わたし」と「社会(共同体)」の相互作用によってつくられていく。//
※◆②③は同じ意味のことを言っている。極めて妥当と思う。では、★①と◆②③は同じ論点にあるのだろうか? 整合性はとれているのだろうか? 両者を同一概念と理解するのは困難ではないか。
p367
//見知らぬ相手と出会ったとき、わたしたちがまず(無意識)気にするのは「自分と同じ”しるし”をもっているかどうか」だ。”しるし”をもっている、すなわち「生存への脅威」でないとわかったら、次に気にするのが「自分にとって価値があるかどうか」だ。このときの判断基準が、外見や知能を含むパーソナリティということになる。
このことから、パーソナリティは自分のなかにあるのではなく、他者との関係性によってつくられることがわかる。//
2024.5.17Rewrite
2021.8.14記す