||||| ものさし「等身大」(養老孟司)|||

Home > つぶやき OpinionProfile

 新明解国語辞典第三版では「等身大」の見出しを採用せず「等身」のみで、その語釈は、
//身長と同じ高さ。//
用法に //「──大」// が示されている。

 三省堂国語辞典第八版には「等身大」が採用されている。
①彫刻などで、実際の寸法とちがわないこと。
②誇張や飾ることもせず、実際のとおりであること。

 例解新国語辞典第十版「等身大」
①身長と同じくらいの大きさ。ライフサイズ。
②かざったり誇張したりせず、ありのままであること。また、平凡であること。

 「等身大」の原義は「身長」のこと。ここから援用されて「ありのまま/平凡/実際のとおり」とある。

養老孟司『唯脳論』にみる「等身大」と「等身大以上」。文庫版を出典にする。

p209
//ダーウィンが40億年について語った原理が正しく、その後から、自己の認識が同じ原理で進歩すると考える。それはダーウィンを神とする思考である。むしろダーウィンは、意識的であれ無意識的であれ、自己の認識が「自然選択的に」すなわち「進化論的認識論が主張するように」変化する、そう信じていたはずである。だからこそそれを生物進化のモデルとすることが可能だった。このような推測は、同時にイギリス哲学が「経験主義」を基調として来た事実によって補強される。要するにそれが「かれらの考え方」なのである。さもなければ、一個人が40億年を語れるはずがない。それが「等身大の思想」というものであろう。私はヒトだから、等身大しか信じない。それ以上も以下も、たぶん誇張である。
 ダーウィンはキリスト教会とぶつかった。それは当然である。キリスト教もまた、典型的な「等身大以上」の思想だからである。ヒトは心に神を創り、それを投影する。投影された影は、しばしば等身大より大きい。それをヒトの肉体に連続させるために、「三位一体」があり「受肉」がある。ダーウィンと教会の衝突の深層はなにか。それは、古き「等身大以上」の思想、すなわち神と、新しい「等身大以上」すなわち「ヒトを含む生物全体の歴史を説明する原理」との衝突だったのである。ダーウィンの思想に、当時の敬虔な人たちは、ある傲慢さを見たに違いない。ヒトが感情的に反発するところには、なにかある。そして、その反発は、自分が同質なものを持っていることから生じる。それはすなわち、「等身大以上」の思想である。//

p212
//「等身大以上」の宗教は、ダーウィニズムを生んだ。それは同時に、なぜか自分の脳を考えに入れることを拒否する。繰り返すが、ソクラテスもデカルトも、その点を指摘したのであろう。しかし、それでも頑張る。それが「文化」であろう。//

p231
//目的論の系譜にも、西洋哲学史に出現する「等身大以上」の思想が表れている。早い話が、目的論が成立するのは世界ではない。生物の行動である。それを拡張するのは勝手だが、結論はおそらく「問題は未解決のままであった」ということになるであろう。//

p238
//ネオ・ダーウィニズムに対する反論が面倒なのは、この学説の「唯脳論的」構造が「脳にとって」きわめてうまくできているためである。こうしたやり方に対しては、「等身大の思想」つまり「それはこれこれの具体的な面に対して応用できる、これこれの具体的な面には応用できない」という言い方しかできない(実際に、形の進化については応用できない、できると思っている人は形態学者にはならない)。さもなければ、もう一つ別な「等身大以上の思想」を創りあげるしかあるまい。それはしかし、ネオ・ダーウィニズムに替えて、ふたたび異なったネオ・ダーウィニズムを建設することである。//

p240
//「外界の客観的真理を発見した」と推論するなら、われわれはふたたびガリレオ以前に戻ることなる。なぜなら、その推測には、「実証的根拠」はないからである。
 ただし、外界に客観的真理があるという「等身大以上の思想」は、自然科学の発展を助けたに違いない。さもなければ、面倒だから、変った人以外は誰も脳の訂正などしないからである。事実それが、キリスト教社会以外の多くの社会で起こったことであろう。//

 「等身大」は絶対尺度(ものさし)ではない。「等身大」はヒトの数だけ存在し、「等身大」というものさしで論理を展開することは、できないとわたしは思う。

養老孟司『唯脳論』文庫版 p197
//視覚と物差のところで述べたように、われわれは長さの絶対尺度を持たないから、物差を持つ。//
※「絶対尺度」は養老孟司が使用している表現である。


p64
//バカに付ける薬ができたとしても、ここ〔脳血液関門〕を通らなければ有効ではない。//
p99
//馬鹿を言うな。それとこれとが何の関係があるか。//
p245
//自分の脳をいくら他人に押し付けようと思っても、相手がバカならどうにもならない。//
※「バカ/馬鹿」……漢字とカタカナで用法が違うようだ。「馬鹿」の用法はある種の問いかけである。しかし、「バカ」は「バカ」のものさし(定義)が必要と思われるが唐突に文脈に流れ出てきている。

p64
//神経細胞は「興奮」する。つまり、女性の場合もそうであるように、個々の神経細胞は、興奮するかしないか、そのいずれかの状態にある。//
※ここの「女性」についても上記「バカ」の用法と同じであろう。ステレオタイプではなく、養老孟司流の意思が働いているように思え、読者に同意を求めている。これをプロパガンダという。
※プロパガンダ……//〔主義・思想などの〕宣伝。// 新明解国語辞典第三版

2023.4.22記す

© 2024 ||||| YAMADA,Toshiyuki |||, All rights reserved.