ライアル・ワトソン『エレファントム』p328
//私たちが世界を認識するときには、必然的に種としての偏りが生じている。私たちは目ではなく、心で世界を見ている。現実の体験というのは選択的で主観的なものだ。限られた部分だけを捉え、さらに経験と期待に基づいてそれらを並べかえる。物事を型にはめ、限られた情報をふるいに分けて、受け取ったものを理解可能な形にする。
こうした理解が恣意的なものであることは「同感性」という言葉にも明確に表れている。この言葉は集合的な感覚、つまり、同じ文化的制約のもとで生きる人々のあいだで共通した反応を指す。そうして体験した物事は、かなり多くの人々によって妥当だと認められるかもしれない。しかし、それが「現実」の世界に存在する物事に一致しているとは限らない。//
※続けて
p329
//一般に子どものほうが物事の本質に近いところにいる。子どもたちの経験は自由で、型にはまっていない。そして正直だ。大人は社会に受け入れられている形で自分の見解を構築しようとする。架空の友だちや幻の象を経験から削除し、多数派の意見に合わせて現実を作り変える。でも子どもは、物事をありのままに見ている。その純粋さを持っているうちは、生命の本当の音楽を聴くことができる。象がいれば、そのまま受けとめる。//
2023.6.29記す