||||| 10年で中絶1000万件 少子化の”原因” |||

養老孟司『唯脳論』文庫版 p252
//わが国の人口増加が、「人工」妊娠中絶によって急速に終焉したことは、統計に明らかである。間引きの世界もまた、同じ原理に立脚している。深沢七郎はそれに気づいていたであろう。//

松宮満の見聞読録 <4> 2020.8

少子化の、”最初の”原因は、
政府の少子化「推進」政策にあった

 前回の稿で、人口動態統計の出生数の推移をたどってみたところ、戦後70年の間に年間出生数が3分の1になったことが分かった。1年間に生まれる子どもの数が、戦後70年経つうちに70%減少したのである。
 さらに、戦後の出生数の増減のパターンをごく大雑把に概観すると、次の3期に分けることができることが分かった。(千人以下四捨五入)

  • 第1期……昭和24年から8年間に110万人 減少
    • 1949(昭和24)年 270万人(第1次ベビーブームのピーク)から
    • 1957(昭和32)年 160万人まで
  • 第2期……昭和33年から16年間に49万人 増加
    • 1958(昭和33)年 165万人から
    • 1973(昭和48)年 209万人(第2次ベビーブームのピーク)まで
  • 第3期……昭和49年から46年間に122万人 減少
    • 1974(昭和49)年 203万人から
    • 2019(令和元)年 87万人まで。以降も減少見通し。

 こうして眺めてみると、270万人あった年間出生数が87万人に減少したことのほかに、もうひとつ目を引くことがある。
 戦後第1期に注目してみよう。
 昭和24年から32年までの8年間に年間出生数が110万人も減少したのである。戦後ベビーブームが3年間で突然終わり、急激な少子化が起こった結果である。不自然で不思議な推移と言わざるを得ない。

 いったいこのような急速な少子化はなぜ起こったのだろうか。
 欧米各国でも、戦後ベビーブームが起こり、その後少子化傾向にはあるものの、ベビーブームが3年で終わった国はない。
 たとえばアメリカ合衆国では、1964(昭和39)年生まれまでを「ベビーブーマー」または「ブーマー」と呼んでいる。我が国のブームは3年で終わったのに、アメリカでは18年間も続いたのである。イタリアは20年、フランス15年、イギリス、ドイツは10年続いている。ちなみに韓国でも1953年の朝鮮戦争休戦後から1975年頃まで20年以上ベビーブームが続いたのである。

 わが国の少子化について、その「原因」について語られるときのキーワードの代表格が「女性の社会進出」である。したがって、「対応策/緩和策」としては、研究者も政治家も「働くお母さんの子育て支援」が必要と言い続けてきた。
 働く女性が増えてきたから少子化が始まった? ほんとにそうか?
 このような「説明」では、欧米諸国との差異が説明できない。

 OECDの統計(2018年)によれば、日本の女性(15-64歳)の就業率は69.8%とのことである。49か国中15位。英国、カナダとほぼ同率である。ちなみに米国65.7%、フランス62.0%だった。女性就業者のうちパートタイムの人は、日本36.7%。ドイツ、英国とほぼ同じである。
 こうして女性の就業率を見てみても、数字の上では欧米諸国と際立った差異は見えない。

年間100万件を超える人工妊娠中絶

 では、一体、突如起こった少子化の”最初の”原因は何だったのだろうか。
 この問題を考える際に、次の本が参考になった。河合雅司『日本の少子化――人口をめぐる「静かなる戦争」』(新潮選書/新潮社 2015年)。著者によれば、戦後ベビーブームが突然終わったのは、「人口増加抑制の一助」として昭和23年に制定された「優生保護法」によって人工妊娠中絶が簡単にできるようになったからだという。特に、制定の翌年には「経済的理由」での中絶を認めるよう改正された(我が国は、経済的理由での人工妊娠中絶を公認した世界最初の国となった)。さらに4年後に第2次改正が行われ、それまでは手術の実施にはその適否に関して地区優性保護委員会の審査が必要だったのだが、この手続きを廃止して、医師会の指定する医師(指定医)が認定するだけで任意の中絶手術ができるようにしたのである。
 こうして、妊娠中絶に対するハードルを極端に下げた結果、年間100万件を超える中絶が行われるようになり、出生数が急減したというのである。

 ――人工妊娠中絶の件数が年間100万件。
 ほんとにそうか?
 にわかには信じがたかったので、厚生労働省のホームページで統計を検索してみた。
 「母体保護統計報告」と「衛生行政報告例」(昭和20年代は「人口白書」昭和34年版)
 その結果判明した件数を並べてみたら下記のようになった(千の桁以下四捨五入/西暦省略)。
 ちょっと想像を絶するような件数だが、これは届け出られたものだけである。
 昭和20年代・30年代の、敗戦後の社会的混乱の中での世相を想像するに、指定医以外の医師の手になる無届の(闇の)手術も多数あったに違いない。出生数を上回るほどの中絶が行われた年もあると思われる。

出生
人数
(万)
中絶
件数
(万)
記事
昭和22年268
昭和23年268優生保護法制定(議員立法)
昭和24年27010経済的理由による中絶を認める
昭和25年23432
昭和26年21446
昭和27年20180医師会指定医の認定のみで手術可能に
昭和28年187107受胎調節実施指導委員制度発足
昭和29年177114
昭和30年173117
昭和31年167116
昭和32年157112
昭和33年165113
昭和34年163110
昭和35年161106
昭和36年159104
昭和37年16299昭和28年からの10年間で
中絶件数 約1100万
昭和38年16596
昭和39年17288東京オリンピック
昭和40年18284
昭和45年19373大阪万国博覧会
昭和50年19067昭和46~49年、第2次ベビーブーム
昭和49年、
日本人口会議で「子供は2人まで」宣言
昭和55年15860
昭和60年14355
平成元年12547
平成5年11939
平成10年12033平成8年、
優生保護法を改正し母体保護法に
平成15年11232
平成20年10924
平成25年10319
平成30年9216
令和元年86令和元年の中絶件数は未集計

 昭和28年から37年までの10年間に、報告されたものだけでも約1,100万件の中絶手術が実施されたことになる。なお、この同時期に生まれた子どもは約1,700万人だった。

人口抑制のための産児制限〈中絶と避妊〉

 これほど多数の中絶手術が行われたのはなぜだろうか。
 人口抑制のためには産児制限が必要である、その手段は人工妊娠中絶と避妊である――との考えに立ってすすめられた国策に国民がこぞって反応した結果と言えようか。

 ではなぜ人口抑制の必要があったのだろうか。
 それには、当時次のような背景があったのである。
 太平洋戦争敗戦によって領土は4割強を失い、600万人に及ぶ復員者・引揚者の帰還受け入れに加えて、200万人を超える出生の激増。敗戦による社会・経済の疲弊による国民生活の混乱、食糧危機、家なき子、浮浪児。このまま人口が増えれば国は国民生活の保障ができない……。
 ゆえに「人口の抑制」が国にとって喫緊の課題である――というわけだ。

 こうして、人口抑制のため産児制限を国策として実施するために昭和23年に「優生保護法」が制定され、それまであった「国民優性法」は廃止された。
 ちなみに、優生保護法案は政府提出法案ではなく、議員立法による制定であった。
 議員立法にしたのは、”この法律は政府の押し付けではなく国民が望んだものだ”というカタチにしたかったのだと、『日本の少子化――人口をめぐる「静かなる戦争」』の著者は指摘している。その背後にはGHQ(当時日本を占領中の連合軍総司令部/実質はアメリカ占領軍総司令部)の隠された占領政策意図による圧力があった。その意図とは、日本に再び領土拡大の野望を抱かせない、再軍備させないためにも、人口を増加させないことが重要だ、というものだ。このような占領軍の意図に沿った立法であることを隠蔽するために、「国民の代表」が立法を求めたカタチにさせたのだと。
 興味深いテーマだが、この主張の詳細は先の本に譲ることにして、以下、優生保護法をのぞいてみよう。(なお、法律条文の検索はwebサイト「中野文庫法令集」が便利。明治21年から平成まで特に古い時代にできた法令を中心に、年代別・五十音別に検索できる)

 優生保護法の目的は2つあって、第1条にこう書いてある。
 (目的1は平成12年の改正で削除。「母体保護法」と改称)

  • 目的1 優性上の見地から「不良な子孫」の出生を防止すること。
  • 目的2 母性の生命健康を保護すること

 この目的遂行で、2つの手術(下記)をすることができるとされた。
 いずれも本人や配偶者の同意が前提だが、優生手術については、その手術が「公益上必要」と都道府県優性保護委員会(改正後は優性保護審査会)が認めた場合は、同意なし(強制的)に行うことができるとされていた。

  • 手術1 優生手術=生殖腺を除去することなしに生殖を不能にする手術=不妊手術
  • 手術2 人工妊娠中絶=胎児が、母体外において生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出することをいう。

 昭和27年の改正では、この目的遂行のために「受胎調節(避妊)の実地指導」を行うこととした。翌年に「受胎調節実地指導員制度」を発足させ、以降、広く避妊の普及を図るようになった。
 医師のほかに「都道府県知事の認定する講習を修了した助産婦、保健婦又は看護婦」を指導員として派遣し、「女子に対して厚生大臣が指定する避妊用の器具を使用する受胎調節の実地指導」をさせることにした。こうして、妊娠中絶によらない産児制限を「啓蒙」しはじめた。
 こうして我が国の政府は、敗戦後「占領下」の混乱期に起こったベビーブームへの当面の対応手段として優生保護法を制定し、「人工妊娠中絶」を利用した。人工妊娠中絶で人口をコントロールしようとしたのである。当時の国会の議事録を見ればそのことが分かるだろう。(国会会議録検索システム

 第2次ベビーブーム(昭和46~49年)で政府は再び人口抑制のための産児制限を強力に推進。今度は「避妊」が強調された。
 昭和49年に開かれた第1回日本人口会議は、大会宣言で「このまま人口増加が続けば我が国の経済と国民生活が破綻する」「子供は2人までにしましょう」と国民に呼びかけた。そのためには避妊が重要で、ピル(経口避妊薬)とIUD(避妊リング)の公認のみならず新しい避妊法の開発が必要だとも呼びかけたのである。(昭和49年7月5日付新聞各紙に記事あり)
 人口抑制=避妊の普及は国策となり、当時の「保健婦」の中には、大企業の社宅で若い主婦に集まってもらい「避妊の実地指導」と避妊具の即売が仕事だったと振り返る人が何人もいる。

 こうして、高度経済成長期には、「家族計画=子供は2人まで=避妊」の奨励(キャンペーン)をして「人口抑制策」を強力に推進したのである。
 それから46年。出生数は減り続け、少子化はとどまるところを知らない。

松宮満 2020.8.12
▶松宮満の見聞読録

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