||||| 陸=日常 と 海=非日常:遊びの居場所 |||

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岩田慶治 いわた・けいじ 1922年 国立民族学博物館教授
+ 『子どもの発見』光村図書 1985年
+ 執筆タイトル「遊びと自然」p91-127
+ 本田和子らとの共著

p125
//遊びこそは人類文化の母胎であるということが、当然のこととして受け取られることになる。いや、遊びを母胎として誕生したのは、人類の、あるいは諸民族の文化だけではない。宗教だってそうなのである。
 これまで、われわれが〔※〕口をきわめて遊びの位置づけについて述べ、遊びは陸(日常の世界)と海(非日常の世界)の交わる渚の出来事であって、そこで二つの世界が交わって波立つ、その波立つところに面白さがあると述べてきたし、その面白さこそが人間と万物を包み込むのだと述べてきたことは、とりもなおさず宗教の起源を述べたことなのである。聖が俗を包む。俗が聖に抱かれる。その憑依の感覚は宗教以外の何者でもないからである。そして、その感覚を強めるためには、非日常はますます非日常でなければならず、聖はますます聖でなければならないのである。
 このへんでわたしの遊び論を閉じたい。
 遊びは人類文化の母胎である、ということへの推論の手がかりは得られた、といってよいのではなかろうか。//
※担当執筆部分の末尾。
※「われわれが」……筆者自身の一人称と思われる。つまり「わたしが」に相当。

 本書は『子どもの発見』だが、本稿では「子ども」に言及している箇所はほとんど見当たらない。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の引用が多用され、子どもに特定することなく「遊び」について論じられている。

p92
//遊びとは何か、考えれば考えるほど、わからなくなってしまうのである。
 仕事と遊び、先ずはその境い目がわからない。//
※「遊び」をテーマにした本で、このような記述は多い。

p95
//子どもの遊び、おとなの遊びといっても、両者のあいだにはっきりした境界線を引くことは困難なのである。
 遊びと神ごとが一体化していたのは、なにも日本だけの特殊例ではないし、遊びが幼児教育の機能を果しているということになると、これは人類に普遍的なことになるだろう。
 遊びとは何か。遊びの輪郭を示し、遊びに定義を与えることは必ずしも容易ではない。//
※そうだろう。遊びを論ずることは難しい。困難であり、容易ではない。このことは十分に承知している。だからこそ、どのように料理するのか、ということになる。
※結論(p125)で導き出されているように、筆者は「宗教」に結びつけている。敢えて言えば、この小論は、「遊び」は「非日常」と「日常」のあいだまたはその二つの領域を行き来するところに生ずることとしている。「非日常」を「海」に仮託し、「日常」を「陸」に仮託したとき、海と陸の交錯するところ、つまり「渚」に筆者は「遊び」をみている。
※わたしも「渚」には関心があるが、「日常/非日常」という見方があるのか……?と思った程度で、そうした宗教観は(わたしには)ない。子どもの立場になってみれば、宗教の世界は、ファンタジーに似ているかも。(「おとなのファンタジー」を宗教とすれば、しかし、「子どものファンタジー」はお化けやこわいものの世界で、宗教とは違うだろう)

(なぎさ)と (かがみ)

p123
//遊びは二つの世界の境界における出来事であり、寄せては返す波がそこでたわむれている渚の出来事なのである。//
※これを //応答の仕組み//p123 としている。
p124
//鏡は自分のアイデンティティーを告知してくれるもの、自分の存在をあかしてくれるものかもしれない。もしそうなら、鏡は眼に見えない自然、文化の彼方の世界、海、に似ている。自然と文化の交わるところ、つまり渚は、鏡の前で鏡に向かって自分のふるまいを映す、そのたわむれの場と同じではなかろうか。//
※鏡に映っている相手はだれか? 自己と他者の問題。他者と自己、この境界も「遊び」の重要な要素ということになるのかもしれない。
※〓「いないいないばあ」──こちらも「他者と自己」で成立する「遊び」ということになるか。


p95
//遊びのなかにボールが、あるいは一般に道具が持ち込まれることによって、遊びがつまらなくなったという見方があるが、私の試みもこの見方と一脈通じるところがある。//
※〓遊びの名称がついた遊び/遊びの名がない遊び

p104
//勝負を競うことが、単なるゲームの場を超えて文化的・宗教的に意味づけられていることはいうまでもないが、その際、私がとくに注目しているのは、勝つことの価値とともに負けることの価値が認められていることである。勝敗は人間の常だという認識を超えて、敗けるとわかっているゲームに参加する。敗北をめがけて全力をつくすということもある。人生に死が約束されているように、民族と民族、集団と集団のあいだにも、敗北することの価値とその美学が肯定されなければならないと思うからである──今日の文脈でいえば、先進国は途上国のために敗北しなければいけない、そんなことが思われるのである。敗北といわずに自己犠牲といってもよい。//

p118
//遊びが行われる自然の場というと、直ちに思い浮かぶことは、山あり川あり、森があって動物が往来するという野外の状況を考えることになる。それはそれでよいのであるが、ここで自然といったことの要点は、そこが人工の場、人間によって意味を付与された空間ではないということである。//

2023.10.6記す

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