||||| 宗教と子ども:山折哲雄 |||

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山折哲雄「子どもと老人」
+ 『子どもの発見』光村図書 1985年 p193~219
+ 本田和子らとの共著

 ──この章を読んだが「わかった」気になれない。何かの”知識”を得たような気がしても、それで、どうした? という気分。後味が悪い。──という読後感。神仏の世界をどう捉えたらよいのか……わからない。

p211
//柳田國男は子どもの問題に深い関心をもった人です。子どもについての論文がたくさんあります。その中で一般に知られているのが、『桃太郎の誕生』ではないでしょうか。そこでは桃太郎や瓜子姫のような小さい子どもの誕生について、いろいろな説話、伝承、縁起が紹介され、分析されているのですが、これらの「小さ子」たちの発生のふるさとは池や水源地にあるのだという。「小さ子」伝承が生まれるところに必ず水がかかわっているというわけです。//……//水中に忽然として女性=女神が現れて、地上の人間に子どもを授けます。//

p203
//少なくとも仏教でいう無我は、社会的な生活をしてさまざまな自我体験をした人間が、自我を乗り超えて初めて達しようとする境地のことです。そのような無我の体験は、そもそも子どもにはできないでしょう。//……//子どもの出家と大人の出家ということを考えることがあります。出家ということは、現世を捨てて宗教的な世界に入ることです。昔の偉い宗教家の伝記を読んでいると、子どものころ両親に死に別れて、それで出家したといった記述によくぶつかります。親鸞も、道元の場合もそうですね。そして、それは何も日本に限らない。彼らの出家の理由には、親に死なれて無常の風を感じ、それで出家をしたというように説明されている。しかし昔であろうと今日であろうと、八歳や九歳の子どもに世間の無常などというものが果たしてわかるものでしょうか。私はそういう説明を信じない。そのような説明はいい加減なものだと思うのです。
 さまざまの人生経験を重ねて、そして大人になってから出家するのは、よく理解できる。ところが、子どもの出家の理由がわからない。//

p204
//哲学者のキルケゴールはうまいことをいっています。「大人は悲哀によって泣くけれども、赤子は苦しみによって泣く」と。//……//赤子はただ生理的原因だけで、理不尽に泣き叫んでいる。//……//キルケゴールのいう赤子と大人の対照は、ちょうど少年の出家と大人の出家の場合に極めて似ているのではないでしょうか。//

p213
//日本の仏信仰の中心は不動と観音と地蔵の三位一体態勢にあると先述しましたが、それを神道の側でいうと、八幡信仰と稲荷信仰と天神信仰となるのではないでしょうか。//

p218 節のタイトル //成熟とは//
//私は、われわれ三十代、四十代というのはいわば地獄の世代だと思っています。まず家庭を維持しなくてはならず、金はなし、上からは抑えつけられ下からは突き上げられる、という世代だからです。一個の人間としては働き盛りでありながら、現実的には地獄の状況を生きる世代です。ところが、そのような地獄の世代を生き抜いて五十、六十を経過していって、次第に成熟の年齢に近づいていく。その成熟世代の理想型は何かというと、それが翁ではないでしょうか。//
p219
//性的な人間がその性的な身心状況から徐々に抜け出ていく世代がこの翁の世代ではないかと思うのです。抜け出るということは、性的に中世化するということではなくて、むしろ無性化するということです。//
p219
//中性化というのは性の相殺というようなところがあって貧しい晩年をむしろ暗示しているのではないか。これに対してここでいう無性化というのは、男性が同時に女性的なものを取り込み、女性が男性的なものを取り込む形で、男性そのもの、女性そのものを乗り越えていくというように考えてみたいのです。私は、それが死に向って成熟することではないかと思う。例えばユングは、「年を取るということは、両性具有の状態になることだ」といっていますが、私もそう思う。
 地獄世代の人間が成熟するということは、つまり両性具有的な世代に近づくということですが、その段階になってはじめて、「老い」はかつての子ども時代の無垢な世界に近づいていくむ。童子の無邪気な微笑と無垢な単純さの世界が蘇ってくる。性的に開花する以前の胎生的な始源に回帰するのだといってもいいでしょう。//
※ユング……C・G・ユング

2023.11.11記す

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