識字の実際:江戸時代(19世紀)

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識字率の高さ、即ち識字力の向上で
知性の存在を表そうとするが、それは何を意味するのか?

  1. //19世紀後半の村落社会において、戸主層にあってはそのほとんどが識字力を身につけていたとみてよいでしょう。// ♥ページ最後尾
    //一季奉公人〔1年契約の奉公人〕たちは奉公先で夜間に勉強し、初めは古状揃・庭訓往来でも難しすぎると言っていたのが四書五経へと進み、素読稽古の夜は短いと嘆くほどになり、のちに素読はしなければならないものと言われたほど流行したという。// 藤田覚♠『幕末から維新へ』岩波新書 p114
  2. //「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している」「だから日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成された自国語を読み書き出来ない男女はいない」// ♠p115 ※これはシュリーマンが、1865年に //横浜に上陸し、江戸や八王子での見聞を『日本中国旅行記』//に記した。
  3. //識字率94%// は、確かに高いが、6%の非識字者がいるということでもある。
  4. (1)(2)は成人を観察してのことである。奉公人の努力は記されているが、その努力を実現させるエネルギーは何に拠るのだろうか?
  5. //幕府は、寛政4年(1792)から、正学とした朱子学を振興し埋もれた人材を発掘するため、「学問吟味」という学術試験を始めた。寛政6年の2回目から原則として3年に1回おこなわれ、幕末まで19回実施された。受験の対象者は、15歳以上の幕臣とその子弟であった。// ♠p100
  6. (5)となれば、幼少の頃より学問をめざしたのだろうか?
  7. 階級は違えど、「学ぶ」環境は、19世紀には条件整備ができていた。
  8. 学ぶ意欲・エネルギーは、どのようにして育まれるのか。
  9. 十分に遊ぶことで、成人になってからの意欲につながるのでは?──と思いたい、わたしがいる。

入札(いれふだ)1856年 事例

国立歴史民俗博物館(歴博)編『新しい史料学を求めて』吉川弘文館 1997年
p135~187 章タイトル //村の識字と「民主主義」//
担当執筆者:高橋敏 たかはし・さとし 1940年生 歴博教授(執筆当時)

p136
//本日「読む」のは、ここ数年携わっている静岡県裾野市の市史の編さん作業の中で見出しました村役人の入札の文書です。
 次の二点に魅力を強く実感しました。
 従来、私たちの目にする文書、多くは地方(村方)文書は村役人クラスの村落支配層の知的農民が書いたもので、村を構成した百姓たちの生の文字に触れることが困難でした。田畑売買・借金証文等の私文書にしても書き手は同様でした。ところが入札は戸主ではあるが大多数がこれという人物を村役人として選ぶために自らその名前を書いたものです。第一に、入札は近世村落の農民の識字を知る上で、直接手がかりになる資料ではないかという期待です。
 第二に、入札は私たちの知っている通常の村役人選出と違って異色です。特定の家が世襲する場合、世襲とはいかなくとも特定の複数の家の年番等によるとか、交代制を採る村とかが普通です(当該の村はかつてこれです)。入札という選挙を行うというのは稀です。いわば「村の民主化」「村の民主主義」への期待です。そして何故入札が行われたのか、という問題に波及します。//

p140
//ところで「入札」の「札」ですが、木製を想像する人がいるかも知れませんが、そうではありません。紙製、しかも投票用紙状の定型はとっておらず、各自が適当に持ちよったものと考えられます。//

甚平に投票された札(入札)

p142
//正確に判読できるものの多彩・多様であることに驚かされました。//
※上の写真は、「甚平」に投じられた札が34枚。
p142
//「相役名主甚平様」と正確に書かれたものから、一字忘れた「なし甚兵衛」まで文字配列のレイアウト、書き様、書体等、同一のものはもとより類似したものとて全くありませんでした。
 明らかに投票者一人一人が自力で自分の意志と責任で執筆したものです。この意味でこの時点での民衆の識字率を直接知ることの出来る絶好の実物資料といえましょう。
 全体的に甚平(兵衛、本文中は甚平で統一)を名主に選ぶという入札行為は文字によって正当に行使されたといえます。ただし、二、三識字上注目すべき点があります。漢字だけではなく、ひらがなを使った入札が七枚あります。名主を「なぬし」(二枚)「名ぬし」(一枚)「名主し」(二枚)と書いたものの他に「なのし」「なし」と表記したものがいました。//
※小学1年生の作文では、「けいこうとう」を「けこと」と書いた例がある。口でしゃべるときには「けーこーとー」と言う。「けこと」と書き著しても、いざ自分の作文を読むときは「けーこーとー」と言う。上の例で「なし」と表した本人は、口頭では「なぬし」と言うのだろう。「ぬ」は「ん」に近い発音(撥音便)なのかもしれない。

p144
//「甚兵衛」を「しん兵衛」「甚ん兵衛」と書いたものもいます。ひとつの傾向ですが、ひらがな表記の入札は文字を書き慣れていない稚拙な筆づかいです。類推ではありますが、甚平に入れた村人は、識字の観点から言えば、質的に高いものから低いものまで広く含まれています。換言するなら、甚平は村内から満偏なく集票して51枚中34枚の高札を獲得したのです。と言って稚拙な書き様の入札にしても、自らの意志を示すに何らの支障をきたしているわけではありません。//

 この投票(入札)で、高札は甚平で34枚(票)。ほか、宮内左衛門6枚、永助4枚、半右衛門2枚と続く。詳細をここでは省略するが、本書には入札の写真が掲載されている。

←左)「御名主役 多分付」
←左)「御名主役 多分付」
p148
//「多分付」とは「多分付」、すなわち多数に従うということでありましょう。//……//高札の人物なら誰でもよいという意志を表わしたものでしょう。村の伝統的共同体の流れを感じさせる投票行為です。//

↓下)p148 //最後は何とも解読し難い三枚であります。
「 」
「□」
「新」
 白票は確かです。他の二枚は「新」と読めるもの一、いずれの漢字とも判断つきかねるもの一です。これら三枚をどう考えるか。文字が書けなくて白紙なのか、該当者なしの白票なのか、また他の二枚もいささか稚拙さは免れません。識字力に問題ありと見なしてよいものでしょうか。//

p152
//安政3年次の御宿村の家数は、「安政三丙辰年三月駿河国駿東郡御宿村宗門人別御改帳」によれば63(寺・修験を除く)です。単純に投票率は81パーセントの高さです。識字に引き付けてみると白票と判読不明の二枚を除いた48枚は文字によって自らの意志表示を行っています。//

p160
//書体・書式、書き様から1850年代の御宿村の戸主層の識字について考察してみました。白紙の入札をどうみるかによって若干分析は異なりますが、それにしても僅少であり、ほぼ大多数が人名を書く能力を身につけていたと断定してよいと思います。中には稚拙さを免れ難いものも散見されましたが、白筆の入札として判断に困難はなく十分に自らの意志を伝えるものでした。//

p184
//相役名主入札にあっては51枚中48枚が充分判読可能な文字を書いているのです。識字率94パーセントの高さです。これを同年人別帳登録の総家数63で見ても76パーセントになります。//
//無記名を意図的な白票・無効票ととらえれば、識字は100パーセント近いものになります。
 結論的に言えば19世紀後半の村落社会において、戸主層にあってはそのほとんどが識字力を身につけていたとみてよいでしょう。そこで思い起こされるのが、手習のカリキュラムとの関連です。手習塾の読み書きの基本の教本に「名頭」(別称「源平」)があります。「源平藤橘」に始まりつぎつぎと鎖のように人名の漢字を手習いしていく手本ですが、この学習と関係が深いということです。「名頭」の普及・浸透と考えてもよいと思います。//

p187
//今後は近世地方文書の精査の積み重ねにもとづいた女性・子どもを含めた広汎な民衆の文字文化に迫まる克明かつ構造的視野をもつ研究が俟たれている。//

参考
+ 寺子屋とは、そして私塾へ
+ 「江戸時代」異聞

2024.1.30記す

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