||||| フレーベル全集 訳者による解説など |||

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1)第一巻 訳者あとがき 2)第二巻 訳序 3)第三巻 訳者あとがき
4)第四巻 解説 荘司雅子 5)第四巻 訳者あとがき 荘司雅子 6)第五巻 訳者まえがき 荘司雅子


1)フレーベル全集 第一巻 訳者あとがき 〔抄〕

p558
//フレーベルの原文は義理にも明快とはいえない。難問はしかし、文意の不透明さだけではなかった。二国語間に普通に見られる意味上のずれはともかく、フレーベル独得の語法ともいえそうな箇所がいくつも散見された。そんなわけで、多くの箇所で訳者たちは前進を阻まれ、立往生を余儀なくされたことも幾度かあった。そんな時、心ならずもフレーベル先生を呪う言葉など聞かれたように思われるのも、止むを得ない仕儀であった。
 その点から言えば、訳者たちの専攻が、教育、倫理、哲学、文学と多彩であったこともまた幸運の一つであったといえる。何故なら、フレーベルの筆致は予想外に多面的で、その点、訳者たちはそれぞれの領域で助言し合えたからである。また、対象が対象だけに、訳者たちの守備範囲を越えた理数系の領域もあり、それはそれなりに他学部の同僚の手をわずらわしたこと、言うまでもない。//
1977年2月 初の積雪を見た朝 岡元藤則


2)フレーベル全集 第二巻 訳序 〔抄〕

pⅱ
//本書は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベルの著 “Die Menschenerziehung” を訳出したものである。この原書が今まで一、二の方面において見出した邦語訳が、あるものは抄訳であったり、あるものは英国の、やや唯物論的傾向をもったスペンサーによる英訳からの重訳であったりして不備の謗(そしり)を免れなかったのに対して、訳者はここに原著の真の生命の祝福のため、正しい忠実な全訳を試みずにはいられなくなった。けだし、「教育」という問題がとくに要求するところの二つの方面、すなわち、複雑なる事実の原理論的統合と、原理の実行的方法とが、フレーベルのこの著書においては、ことに緊密に結合されていて、そこに本書の類なき特色が発揮されていると思われたからである。理論と実際とが緻密に織りこまれて表現されている全篇の思想は、やがていわゆる「体験の教育学」としてのフレーベルの教育思想を語るものである。
 「人の教育」──書物の標題として、これほど簡明な表現があるであろうか。しかも、また、教育の書としてこれほど深い含蓄のある表現があるであろうか。世の多くの教育書が、むずかしい学術的標語や、わざとらしい方法概念などを掲げて、いかにもその内容の立派さを誇示しようとしがちであるのに比して、フレーベルがこの簡明な表現をもって教育の核心をついてくれたことを、私はたまらなくありがたく思っているものである。「人」は大自然のうちに位置して、常に神に支えられている。──この大宇宙の間に人が真に「人」として完成されてゆく道を、フレーベルは強い情熱と、深い学識とを傾けて説いている。このように、信仰と愛と希望と、光と熱と力とに満ちた教育書は、おそらく人類は二度と書きえないであろう。ロンドン大学の教育学の演習には、毎年、必ずルソー『エミール』、ペスタロッチ『酔人の妻』、フレーベル『人の教育』の三つの書物が用いられてきたと聞く。
 これに、後になって現われたナトルプの『社会的教育学』を加えるならば、まさに教育に関する四大宝典とも申すべきであろう。//
 昭和24年12月 クリスマスの夜 玉川の丘に、学園聖歌隊の歌う讃歌をききつつ

訳者〔個人名の記載なし〕


3)フレーベル全集 第三巻 訳者あとがき 〔抄〕

p664
//さてフレーベルがわが国に紹介されたのは、明治9年、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)に付属幼稚園が創立された時である。この時仏教徒で英語のできる関信三が、『幼稚園記』や『恩物』を英語から邦訳し、それにしたがって幼稚園教育を始めたのである。このようにわが国ではフレーベルといえば幼稚園の創立者、幼児教育の父であるという印象が強い。その反面フレーベルの教育思想全般についての紹介はきわめてとぼしいといっても過言ではない。しかしフレーベルの主著『人の教育』に見られるように、フレーベルは人間の教育全般について深く広く研究し実践した大教育思想家であった。
 邦訳『フレーベル全集』第一巻から第三巻の内容は、まさに大教育思想家フレーベルの肖像を物語っているといってもよい。これらの著作や論文は、いずれもフレーベルがカイルハウに学園を創設して一般の教育を実践した時から執筆されたものである。本書第三巻の第8章から第15章までは1826年の論文集である。1826年といえばまさに彼の主著『人の教育』(Menschenerziehung)が出版された年である。これらの論文は『人の教育』には見られないより広い深い人生問題、子どもの活動や生活および家庭の教育、さらには形と形態に関する学、地理学などのような教科教育の問題をちみつにあつかっている。
 最後の「1836年は生命の革新を要求する」という論文は、フレーベルが多くの教育実践をした後に書いたものである。この論文を契機としてフレーベルは翌年から幼児教育に入った。この時フレーベルは年齢すでに55歳であった。その後の彼の幼児教育に関する著作や論文は邦訳『フレーベル全集』第四巻と第五巻に収めることになっている。//

p665
//フレーベルの原文の難解さは本場のドイツの大学者さえも手を焼いたほど有名である。筆者が40数年前にフレーベル研究に志したその瞬間からフレーベルの原文にどれだけ泣かされたかを今さらのように想い出している。//
 1977年7月中旬 梅雨明けの雷鳴をききつつ 荘司雅子


4)フレーベル全集 第四巻 p797

解説 荘司雅子

+ フレーベルの幼児観
+ 幼児教育への実践
+ 世界最初の教育遊具の考案と制作
+ 遊具の製作・販売・普及
+ 世界最初のキンダーガルテンの誕生

 ランゲ編のフレーベル全集の第二部として出版されている『幼稚園教育学』(Pädagogik des Kindergartens)は、全体で30章からなり、総頁数583頁の本文、そして16枚の遊具の挿絵と楽譜がついている。玉川版のこの全集では、編集の都合上、第1章から第22章までを第四巻に、残りの第23章から第30章までを『母の歌と愛撫の歌』といっしょに第五巻に収めることにした。ランゲはこの『幼稚園教育学』一巻をもって幼稚園の創立者としてのフリードリヒ・フレーベルを浮き彫りにしようとしている。したがって内容はほとんど幼児教育に関するフレーベルの論文、とくに遊びや遊具および作業手段に関する論文である。それは、「幼児の遊びおよび遊びの対象物に関するフリードリヒ・フレーベルの思想」という副題がついているように、どの論文を見ても、単に遊びや遊具の外形や遊び方だけを説明しているのではなくて、必ずその遊びと遊具のもつ意味や思想を述べている。そこでこれらの遊びや遊具の意味や思想を理解するためには、まずフレーベルその人の幼児観や教育観を把える必要がある。

 フレーベルの幼児観

 フレーベルは幼児をよく植物の種子にたとえている。たとえば、樫の木のような大樹にしても、ばらやゆりのような美しい花にしても、それはすべてすでに一粒の樫の木の種子やばらやゆりの種子に秘められているのである。その種子に秘められているものが、周りのものとの相互作用によって発展的にあのような大樹や美しい花にあらわれてきたものである。その発展はしかし、さらに大きな力と生命、フレーベルはこれによく神という語を用いているが、そういう宇宙全体を支配している見えざる力、つまり神によってなされるのである。フレーベルの世界観・人生観、したがって幼児観、そして教育観の底にはこのような神の思想が流れている。宇宙の万物はすべて神の創造物である。そして神の創造物であるから、いずれの被造物も神の精神が宿っている。とくに人は他の生物以上に神性が宿っている。そして神性の作用は、フレーベルにしたがえば、活動であり労働であり創造であり生産である。こういう意味の神性を人間の子は生まれると同時にあたえられている。赤ん坊は生まれると同時に活動を始めるが、それはフレーベルに言わせると、すべてうちなる神性のあらわれである。初期のか弱い動きから次第に変化に富む活動になり、やがて創造的な遊びとなり作業となる。成長するにつれて、その活動が労働になり仕事になり生産活動になり、文化を創造するようになる。成長したおとなの家庭や社会における文化活動や生産活動は、すべてその芽生えが乳幼児の活動や遊びや作業のうちにあると解釈するのがフレーベルの立場である。フレーベルが乳幼児の活動や遊びを重んじ作業をはぐくむことに全力を注いだのもこの立場からきているのである。フレーベルが、幼児教育の実践に先立ってまず教育的な遊具を考案し創作したのもそのためである。つまりその教育的な遊具で遊ぶことによって乳幼児の表現活動や創造活動が促進されるようにするためである。ではいつごろからフレーベルは幼児教育の実践に入ったか。

幼児教育への実践

 フレーベル全集の第1巻から第3巻を読んでみればわかるように、フレーベルは普通の教育者のように、最初から専門の教師になり教育家になり幼児教育者になるための教育を受けていなかったし、またそのつもりでもなかった。伝記に明らかなように、フレーベルは家庭の事情で兄たちのように大学へ進むことができず、そのため早くから何かの職につかなければならなかった。いくつかの職を遍歴して結局は建築家になろうと決心し、友人を頼りに田舎の郷里から都会のフランクフルト・アム・マインへ旅した。ところがフランクフルト・アム・マインに着くや、ふとしたことから模範学校の校長グルーナーに出会い、グルーナーのすすめで直ちにそこの小学校の教師になった。この時フレーベルは23歳であった。フレーベルは自伝に述べているが、全くわが心にあらず神意であると思い、生まれて初めて教育生活に入った。しかもやがてそれが自分にとって水中の魚、空飛ぶ鳥のようであると述懐している。つまりフレーベルは教育に自己の天職を得たという。しかししだいに教育活動の重要性を感じたので、フレーベルはペスタロッチ学園を訪問し、二ヵ年滞在してペスタロッチ〔1746-1827〕に師事したり、自らの修業のために更に大学に進んだりした。たまたまベルリン大学で助手をしていた時に、兄嫁から世を去った兄の三人の遺児の教育についての相談を受けた。フレーベルは今こそ真の教育実践に入るべき時だと思い、1816年、34歳のフレーベルはベルリン大学を後にして郷里に帰り、兄の遺児と近隣の子どもを集めて学園を開いた。これはフレーベルが自ら開いた最初の学園であり、日頃から理想としていた教育を実践した学園である。これがいわゆるカイルハウ学園である。もちろん、この時は教育の対象は児童であって幼児ではなかった。たとえ幼児期の教育の重要性を認識し、主著である『人の教育』(1826年、第二巻初所)の最初に幼児期の教育について論じてはいたが、未だ実践はしていなかった。
 カイルハウ学園における新教育の実践はその後、保守的な旧教徒の反撃にあったため、しだいに衰微した。その後たまたまスイスのベルン政府からの招きでフレーベルは、1835年53歳の時ブルクドルフの孤児院長になった。この時代の体験からフレーベルは新時代の教育の要求は家庭教育であり幼児教育であることを痛切に感じ「1836年は生命の革新を要求する」(第三巻所収)という画期的な論文を発表し、幼児教育への実践に入った。そしてウィルヘルミネ夫人の提案で1837年にカイルハウ近くのブランケンブルクに小さな水車小屋を借りて「自己教授と自己教育とに導く直観教授のための教育所」を創設した。フレーベルはこのとき56歳であった。「直観教授のための教育所」というから、子どもでも集めて教育したと思われるが、実際はそうではなかったのである。幼児の教育は、まず遊びのなかで作業を通じてなされなければならないとフレーベルは考えた。それにはまず教育的な遊具をあたえることから、しかもそれは乳児から始めなければならない。前に述べたフレーベルの幼児観からすれば、この立場は当然なことである。フレーベルは幼児のうちに神性を認めているからその神性を発揮させるようにするのが保育であり教育であると思っている。しかも神性は、自発的であり自己活動的であり表現的であり創造的である。ただ自己のうちのものを表現するには何か材料が必要である。幼児が絶えず周りの事物を求めては、それで何かを表現したり創造したりしているのはそのためである。だから幼児の教育には精神を発展させ形成させるための教育的な遊具をあたえなければならないとフレーベルは考えた。このことは本書の第2章と第3章に明らかに述べられている。

世界最初の教育遊具の考案と制作

 1837年、ブランケンブルクに移って来たフレーベルは、4月23日からスイス人のザイゲルを助手にして、彼の考えている幼児教育に必要な教育的な遊具の考案と製作にとりかかった。この製作のためにカイルハウの教師の息子であるフリードリヒ・ボックもやって来た。こうして5月1日にフレーベルは、水車小屋からカイの家に移って、ここを事務所にした。フレーベルはもっぱら遊具の製作に没頭した。彼の製作した遊具は、既成の遊具と全く異なる独創的な教育的な遊具である。そしてこの遊具にガーベ(Gabe──贈物)という名称をつけた。これは子どものうちに秘められている神性を発揮させるための贈物である。英語はギフト(gift)と訳しており、わが国では明治9年に幼稚園が創設された時、関信三がこれを「恩物」と訳して今日に至っている。これは恩賜物からとった語であると思うが、そしてフレーベルの神の概念からこのように訳されたであろうが、今日では恩物とは何かを知らない若い世代の保育者が多い。幼稚園の創設者フリードリヒ・フレーベルが幼児のために考案した世界最初の教育遊具であると説明を加えなければならない。またフレーベルがどういう精神で、どういう原理にたってこの遊具を製作したかについてはほとんど知られていないといっても過言ではない。
 では、フレーベルの遊具と既成の遊具とはどこが違っているであろうか。
 そもそもフレーベルの教育学の中心は、自然を通じて人間に宇宙のうちの無限の力、神の働きを知らせ、それによって人間が神のように生きること、すなわち神のように絶えず創造し生産するようにするところにある。しかも神のように創造する能力の萌芽は、すでに生まれたばかりの幼児にあたえられている。保育や教育は、ただこの萌芽を発展させればよいのである。それを発展させるには理想的な遊具をあたえればよい。ところが市販されている既成の玩具では、フレーベルによれば乳幼児の内にあるこれらの創造的な萌芽を発展させることはできない。というのは、完成された複雑な既成品の玩具では幼児の創造衝動を刺激し訓練することはできないからである。つまり既に完成されているから、もはやそれから何かを作り出すことはなく、また必要もない。幼児はただそれを見て受身的に楽しみ喜ぶだけであるか、積極的な幼児であれば、まもなくそれをこわして、部分部分に分割してしまい、そしてその部分品で自ら思うようなものを表現したり作り出したりするであろう。ここからフレーベルは、乳幼児にあたえる遊具は、何よりもまず単純な基本的な形のものでなければならないと思った。しかしその単純なうちにも多様な要素を含んでおり、基本的なもののなかに創造していくのになくてはならない要素としての論理的な数理的な契機を含んでいる形でなければならない。このような遊具であれば、幼児はそこからあらゆるものを作り出すことができる。そこでフレーベルは、乳幼児の自己活動や創造衝動を目ざめさせるために、まず最初に最も単純な形であるボールを第一遊具として考え、六色の六個の毛糸のボールを製作した。ボールについては本書の第4章にくわしく述べられている。球形というものが宇宙の森羅万象のうちで最も単純で最も基本的な形であるが、外からは見られないが、球のうちにはあらゆる多様性が出てくる要素が含まれている。つまり球は、形の基本条件である面も線も点もなく、ただ一つの曲面であるが、この球形から平面・側面・直線・曲線・点や角などがあらわれてくる。これらの要素があらわれてきたのが第二遊具である球・立方体・円柱である。本書の第7章において、この遊具の発展は、幼児の発達が要求するものであり、必然的なものであるということをくわしく述べている。第二遊具から第三・第四・第五へと連続的に展開されるが、これはすべて幼児の精神と身体が連続的に発達するのに応じて必然的にあらわれてくるものである。しかも次にくる遊びや遊具はいずれもその萌芽は前の遊びや遊具のなかに含まれている。読者は本書の各章を読むとわかるように、フレーベルは第二遊具を述べるときは、必ず第一遊具とのかかわりを、第三遊具を述べるときは第二遊具を、第四遊具のときは第三遊具を、第五遊具のときは第四遊具とのかかわりを述べているのに気づくであろう。第一遊具から第六遊具(本書では第六遊具は扱われていない)までの遊具はすべて幾何学的な立体的な形態からなっており、基本的な素材からなっているから、幼児はこれから無限に多くのものを創造することができる。フレーベルは試みに生活に関するもの、学習に関するもの、模様に関するものなどといくつかの形式を例示しているが、それはあくまでも例示であって、保育者はさらに応用したり、幼児に自ら工夫させたりすることができるのである。

遊具の製作・販売・普及

 伝記にあるようにフレーベルは、1837年からこれらの遊具を次々と考案し製作したが、これらの遊具をどのように各地に普及すればよいかが問題であった。フレーベルは友人セルラーの紹介で出版業者マイエルと知り合うことができた。マイエルは販売の方法や発行の方法について好意的な助言と協力をフレーベルに約束した。マイエルはこの遊具を「幼少年のための遊びおよび作業函」という標題にし、それに適当な説明書を添えるようフレーベルにすすめた。フレーベルはこの時、前に開設した教育所の名称を「幼少年の作業衝動をはぐくむための教育所」と改称した。こうしてフレーベルは、思索も活動ももっぱら幼児教育に傾き、全力をこの新たな分野に集中した。また幼児教育に関するあらゆる問題が、彼の唯一最大の関心となり、同年(1837)8月1日の日記には「さあ、わたしたちの子どもらに生きようではないか!」(Kommt, lasst uns unsern Kindern leben!)と書いている。彼はこの偉大な理想をかかげ、幼児教育邁進への希望に燃えて、同年11月15日ルードルシュタット政府に、この教育所の開設の許可と保護を願い出で、翌1838年4月20日付けで許可された。
 この許可を受けるや、フレーベルは幼児教育普及のために大活動を開始し、自ら考案した遊具の製作と販売と宣伝に専念した。早速ブランケンブルクの町民を動員し、婦人たちは第一恩物の毛糸のボールを編み、男子は第二・三・四・五の木工の遊具を製作した。指物師ハインリヒ・レーンはフレーベルの要求に応じて重要な遊具の製作に力をそそいだ。こうして多くの人びとの協力を得て遊具は順調に製作販売されるようになった。この頃フレーベルは「日曜新聞」という週刊誌をも発行し、自分で考案した遊具や作業手段を紹介したり、自分の教育理論を解明したりした。本書に出ている論文にはこの「日曜新聞」に掲載されたものがある。フレーベルは遊具の製作販売のかたわら「日曜新聞」の宣伝や、国内各地を巡回して幼児教育に関する講演をして歩いた。本書の第15章の講演は1839年1月7日にドレスデン城でサクソニア女王の御前で500人もの聴衆を前にしてなしたものである。女王はフレーベルのこの講演に多大の興味と関心を示し、宮廷馬車がひかえているにもかかわらず、2時間にわたる講演を熱心に聞いた。そして講演が終ってもフレーベルを自分の前に呼び、いちいち遊具の説明から使用法にいたるまで質問をした。フレーベルはこの1回の講演で自らの教育原理を言いつくせたわけでないが、女王が彼の教育原理と遊具に興味と関心を示したことによってフレーベルの幼児教育に関する理念を広く教育界に知らせるよい機会となった。これが契機になってその後フレーベルは、師範学校長や大学教授その他の学者仲間の会合でも、この遊具について講演する機会があたえられた。こうしてフレーベルの幼児教育思想はしだいに各地に普及されるようになった。

世界最初のキンダーガルテンの誕生

 フレーベルが遊具の宣伝や販売や講演のため、国内旅行をしている間にブランケンブルクで留守居をしているウィルヘルミネ夫人が病気になり、1839年5月13日に世を去った。夫人の死後、フレーベルは同僚たちに励まされて、1839年6月ブランケンブルクに「幼児教育指導者講習科」を設立して幼児教育者の養成を始めた。これが世界最初の保育者養成機関である。最初は幼児教育に熱心なわずか数名の男子の教員が参加しただけであったが、しだいに婦人や若い女性が参加するようになった。これらの講習生のためにフレーベルはブランケンブルクの6歳以下の幼児約40名集めて実習を行なった。フレーベルはこれを「遊びおよび作業の教育所」と名づけた。これがいわゆるキンダーガルテンの前身である。1837年に開いた「幼少年の作業衝動をはぐくむための教育所」は単に遊具の製作と販売の事務所にすぎないものであった。
 フレーベルはかねてからこの教育所をもっと幼児にふさわしい名に改めたいと考えつづけた。1840年のある春の日のことであった。フレーベルがミッデンドルフたちとチューリンゲンの森をカイルハウからブランケンブルクに向かって帰る途中、ふとスタイゲル山の山道から眼の下にひろがるブランケンブルクの美しい景色がまるで大きな花園のように見え、やわらかい春の陽に照り輝いているその美しさにうたれて、フレーベルは思わず心の底からの感激と興奮で大きな声で叫んだ。「みつかった! みつかった! その名はキンダーガルテン(Kindergarten)でなくてはならない。」こうしてその年の5月1日からフレーベルは「遊びおよび作業の教育所」をキンダーガルテンと呼んだ。キンダーとは幼児のことであり、ガルテンとは花園のことである。自然の園で万物が神の恵みのもとに調和と統一によって生き生きとしてその本質を伸ばしているように、幼児はこのキンダーガルテンで生き生きとその本質を伸ばしていかなくてはならないというのがフレーベルの考えであった。
 因みにわが国では、明治9年に関信三がキンダーガルテンを「幼稚園」と訳して今日に至っている。
 さて幼児教育の普及は何よりもまず女性保育者の指導にあると思い、フレーベルは全ドイツの婦人や若い女性の協力を呼びかけた。まずキンダーガルテンの趣旨を各家庭に知らせ、国全体の家庭をキンダーガルテン化することを企てた。すべての家庭の母や若い女性が乳幼児の生活と指導法を十分理解することが急を要する問題である。すなわち幼児教育の指導者の養成こそ最も重要なことである。そこでフレーベルは、「一般ドイツキンダーガルテン」を創設して指導者を養成しようと計画した。そして1840年6月28日グーテンベルクの印刷技術発明400年記念祭の日に「一般ドイツキンダーガルテン」の創立記念式を行なった。フレーベルは自ら式辞を述べ、講演し、幼児教育と指導者養成の必要を論じ聴衆に大きな感動をあたえた。フレーベルのこの講演は全ドイツ婦人に対して呼びかけたものである。フレーベルの記念講演の後の、彼が考案した遊具を使って子どもたちを遊ばせ参加者一同にその創造的な遊具の魅力を実演してみせた。こうして1840年6月28日は世界におけるキンダーガルテン創立の永久の記念日となった。この記念式の記事は各新聞に掲載された。フレーベルはその後も宣伝運動をし、主な都市でキンダーガルテンの建設に協力してまわった。
 本書第四巻は、以上述べたフレーベルの幼児教育に関する思想や遊具の紹介、その理念と使用法、幼児教育に関する講演や実践などが内容である。幼児教育の指導者養成や幼稚園運動に関する論文は第五巻に収められている。また幼稚園の建設や指導のかたわら、フレーベルは母親を教育するために1844年に『母の歌と愛撫の歌』(Mutter=und Koselieder)という教育史上どの教育思想家も追随することのできないユニークな家庭の書を出版している。これも第五巻に収められている。こうしてフレーベル全集の第四巻と第五巻は、フレーベルの幼児教育の全貌をあらわしているということができる。


5)フレーベル全集 第四巻 p809

訳者あとがき 荘司雅子

 『幼稚園教育学』は、解説にくわしく述べたように、世界最初の幼稚園の創立者としてのフリードリヒ・フレーベルの真面目を遺憾なく発揮していると言ってよい。本書の訳稿は、筆者が昭和13年に広島文理科大学教育学科を卒業して研究科に進んだ数年間に、当時の主任、故長田新〔おさだ・あらた〕博士の指導の下に初めて全訳したものである。そのうち第18章は、早くから雑誌「幼児の教育」(フレーベル館、昭和24-25年)に連載したり、拙著『幼児教育学』(柳原書店、昭和30年)に付録として載せたり、フレーベル新書(フレーベル館)の第一巻(昭和46年)として出版したりしてきた。また翻訳のかたちでなくて、その多くの内容を拙著『フレーベルの教育学』(大八洲出版、昭和18年)や『フレーベル研究』(講談社、昭和28年)に引用している。その他翻訳としては、明治図書から出ている岩崎次男訳『幼児教育論』(昭和47年)に本書の第2、3、17の三章が載せられている。しかし『幼稚園教育学』が本書のように全訳として出版されるのは、わが国では最初のことである。想えば筆者が昭和13、4年に訳したフレーベルの『幼稚園教育学』の原稿は、筆者のその後の多忙のために、そのまま40年以上も筆者の書斎に眠ってきた。幸い、このたび玉川大学出版部の計画でフレーベル全集全五巻を刊行するにあたり、40数年前に筆者が訳した『幼稚園教育学』がその第四巻として出版されることになった。しかし40数年前の訳文では今日の若い世代には適さないであろうし、また厳密な文法上の誤りもあろうと思い、共訳者として広島大学教授藤井敏彦博士に協力を依頼し、約1、800枚の原稿をさらに原文に即して逐次推敲してもらった。藤井教授は、筆者の原稿を文法的に厳密に原文と一字一句照合したり、わかりやすい現代的な訳文になおしたりしてくれた。この書の訳文が少しでも親しみやすい文章になっているとすれば、それはすべて藤井教授のご苦労の賜物である。
 因みにフレーベルの文章の難渋なことはあまりにも有名である。たとえばドイツの大教育学者で、フレーベルと同時代の人であり、後にフレーベルを支援したディーステルヴェークさえも、最初はフレーベルの原稿を見て、難解であると言って投げ捨てたという話がある。とにかくフレーベルの文章は決してわかりやすいものではない。ワンセンテンスが半頁におよぶ長文は珍しくない。しかし考えてみれば、これは19世紀半ばごろの古典的ドイツ語であり、日本でいえば江戸時代にあたる時代の文章であるから、フレーベルの文章が現代のドイツ人にとっても、きわめて難解であるといわれるのも無理はない。しかしただ文章が長文であるために難解であるだけではなくて、書かれている内容そのものが実に深遠であり、哲学的であり、かつ科学的でもあるために、それを理解するのは容易ではない。そのうえ、フレーベル自らが数学や植物学や鉱物学に堪能であるだけに、その文章は一字一句に無駄がなく、副詞といえどもすべての語がきわめて正確で論理的に使われている。しかも深い象徴性と科学的な論理性にみちている。その代り、つきつめて熟読すれば必ず理解できる。
 以上のように、フレーベルのドイツ語が古典的でしかも内容といい文体といい、きわめて難渋であるために、訳出にあたって多くの苦労と思わぬ時間をかけた。訳出の際は、まず原則としてフレーベルの原文に忠実に、そしてその正確さを失わないようにつとめた。しかしただこれだけの目的であるならば、ドイツ文字をそのまま日本文字に直訳するだけでもすむのである。ところがそれでは、「直訳文は理解しにくい」という従来の一般の不満を解消することはできない。そこでまず最初の直訳文を、いかにすれば親しみやすい、わかりやすい、自然の日本語に、しかもフレーベルの思想のもつ哲学的な古典的な香りを失わないように表現することができるか、ということについて訳者は精魂を傾けた。
 さて本書の内容は、ほとんどフレーベルが子どものために考案し、創作した遊びと作業の対象物である遊具の提示と説明である。しかしそれは、単に遊具とその遊び方を羅列的に説明しているのではない。それは遊びと作業と遊具のもつ意味をフレーベル固有の哲学的思想で説明している。しかも哲学的な思想だけでなく、すべての遊びや遊具のなかにはドイツロマンティークと自然科学の精神が流れており、しかも芸術と宗教的な息ぶきが吹きこまれている。したがってこの『幼稚園教育学』一巻のなかには、実に哲学と科学、宗教と芸術の一大シンフォニーが奏でられている。
 この一大シンフォニーを基調にして、フレーベルは本書で幼児の本質や活動を具体的かつ体系的に述べており、幼児の自然の遊びを描き、それに応ずる教育的な遊具のもつ意義を哲学的に説明し、その遊び方を例示している。さらに母や保母や教師がいかに幼児を保育し教育すべきかについても述べている。もともと幼児を敬し、幼児のうちに無限なもの、永遠なものを感知し、予感し、それをはぐくまずにはいられない情熱があったからこそフレーベルは、教育史上いかなる教育学者も追随することのできなかったこのような一大事業をなしとげたのである。筆者は長年にわたってフレーベルに親しんできたが、フレーベルの書き残したものを読むたび毎に、さらに新しいフレーベルの思想と原理を見出し、いつもそれに新たな感動を覚えるのである。とくにこのたび、40数年前に訳した原稿を再び読みなおし、訳文の推敲をしながら驚くのであるが、本書のどの章を読んでも、そのなかに、幼児を深く見つめ理解し、そのうえにたって幼児の活動と遊びの意義を強調しているフレーベルの姿を新たに発見するのである。そしてその都度、思わず「フレーベルを読まずして幼児教育を語るなかれ!」と叫ぶこと幾度であったことか。さらには、なぜこの『幼稚園教育学』をもっと早く世に出して、母親や保育者や教育者に筆者の感動を分けることをしなかったかを悔むのである。ほんとうはこの『幼稚園教育学』は、100年前にわが国に紹介されるべきものであった。わが国の幼稚園は明治9年に創設されたが、それから100年以上もたつのに、私どもは真実のフレーベルを理解することなくして今日までわが国の幼児を保育してきた。それゆえに、「フレーベル全集が今日まで未だに出なかったのは、東大、京大、東京教育大、広島大の怠慢である」という故小原國芳先生のお叱りは、あまりにも当然のことであると思う。いま、ここにフレーベル生誕200年(1982年)を目前にしてようやく日本の幼児教育界に本書を贈ることのできたことは、せめてもの慰めであり、喜びであり、感謝である。
 今日の保育所や幼稚園で、幼児にもたせている遊具の大半は、すでにフレーベルが考案してものであり、その応用であるのに、それを考案し創作したフレーベルの真の動機と、そのもつ意義およびその指導法を知らずに私どもは、100年以上も私どもの幼児を保育してきたのである。またフレーベルが創設したキンダーガルテンは、今日、制度的に定められている三歳児から入園できる幼稚園をさしているのではない。それは誕生まもない乳児から就学までの全乳幼児を対象としている。その証拠に第一遊具であるボールは、まさに〇歳児のための遊具であり、年齢に応じて第二、第三の遊具をもたせることになっている。またフレーベルの意味するキンダーガルテンは、社会的地位や貧富にかかわりなく、すべての家庭の乳幼児を対象としているのである。今日のわが国に見るように、乳幼児を区別して保育所と幼稚園へ通わせるものではない
 したがって、本書『幼稚園教育学』は、単にいわゆる幼稚園のための教育を述べているのではなく、すべての乳幼児の保育や教育について叙述しているのである。このように考える時、本書はわが国の家庭と保育所と幼稚園の保育と教育にとってなくてはならない宝典である。いやしくも乳幼児の保育や教育に携わる者の必読の古典である。というのは、この書を読むことによって乳幼児の世界を深く洞察し、乳幼児の真の姿をとらえ、適切な保育の実際の指針を得ることができるからである。
 いま述べたように、本書は母親を含むすべての乳幼児保育者のためのものであることを思う時、訳文はこれらすべての保育者が読んで理解できるような、親しみやすいわかりやすい日本語でなければならない。その苦心のために思わぬ時間をかけてしまった。しかしフレーベルの思想はきわめて深遠であり、遊びや遊具の理論はきわめて論理的・数理的であるため、訳者の力量不足で思いがけない誤りがあるかもしれない。読者の皆さまの御叱正を賜われれば幸いである。
 いま、千数百枚の訳稿を前にして感慨無量、胸の迫る想いでいっぱいである。というのは、このフレーベル全集の出版の提唱者であり監修者であり第二巻の訳者でもある小原國芳先生が、全集の第四巻にあたる本書『幼稚園教育学』の完成を見ずして昇天されたことである。いまはただ、できるだけよい翻訳にするため努力してきたことだけを御霊前に報告し、先生の御冥福を祈るほかはない。また最後まで辛抱強く訳稿の完成を待たれた玉川大学出版部次長の関野利之氏、絶えざる激励と連絡を怠らなかった同編集部の宮崎孝延氏、そしてこのぼう大な訳稿を整理しとくに21章の折り紙を苦心して図解してくれた同編集部の平本淳子さんの御三人に心からの感謝を捧げたいものである。なお大学における多忙な講義や研究の合間をさいて、この難渋な翻訳に協力してくれた藤井敏彦教授にもお礼を申しあげたい。最後に本書の原稿の清書に献身的に協力してくれた養女安子にも感謝したい。
 1980年8月29日 荘司雅子


6)フレーベル全集 第五巻 p5

訳者まえがき 〔荘司雅子による〕

 本訳書フレーベル全集第五巻は、ランゲ編のフレーベル全集のうちの『幼稚園教育学』の23章から30章を前半に、『母の歌と愛撫の歌』を後半に収録したものである。『幼稚園教育学』の1章から22章までは、本全集の第四巻としてすでに出版している。『幼稚園教育学』全般については、第四巻の訳者の解説とあとがきにくわしく述べている。筆者は広島大学教授藤井敏彦氏を共訳者として依頼し、筆者の40年前の旧訳稿をもとにして訳出した。なお筆者の旧稿に欠けている29章は山陽学園短大の浜田栄夫氏にその第一次訳を依頼した。その他24、25、26、27、28章については、岩崎次男訳『幼児教育論』(明治図書、1972年)をも参照した。これらの方々に心から謝意を表したい。
 本書の前半をなすランゲ編『幼稚園教育学』の23章から29章は、主としてフレーベルの幼稚園教育の思想の普及と幼稚園設立の重要性についての宣伝と運動、さらに幼児保育者や幼児教育者養成学校の創設などに関する内容である。最後の30章はフレーベルが彼の創案した教育遊具(恩物)の全般にわたって書簡式で系統的に叙述したものである。この章だけでフレーベルの恩物全般を概観することができる。
 フレーベルは、ブランケンブルクを根城に1837年から、幼児教育のための教育遊具の考案と制作と使用法の解説に全力を注いだ。ところがこうして製作した遊具をいかに普及させればよいかは、フレーベルのその後の課題であった。これらの遊具は、乳児から6、7歳までの子どもを対象として考えていたから、これらの使用にはすべての家庭の母親や女性や教師の協力が必要であると思い、フレーベルはドイツ全土の女性に規模の大きい幼児教育施設の創立を呼びかけた。本書の23章の1840年6月28日の一般ドイツ幼稚園創立の記念祭はこのことを明らかにしている。この日はその後の、世界最初の幼稚園創立記念日になっている。これよりフレーベルは、彼の教育思想や方法に関する世の批判にもかかわらず、1852年世を去るまで、たえまなく幼稚園運動をつづけた。彼は全ドイツの父親、すべての男性、いなすべての市民に幼児教育の重要性、幼稚園の設立を訴えつづけた。そしてこの運動の実現のための教育組合の結成を呼びかけている。このことは本書の25章に明らかである。フレーベルの幼稚園運動は、たまたま1848年の三月革命に勇気づけられて、彼はさらに幼稚園に対する公的援助や公立幼稚園の設置などの運動を進めた。ところが革命運動は抑圧され、自由主義運動は弾圧され、フレーベルの幼稚園運動もその余波を受けて、1851年8月7日幼稚園禁止令がプロイセン政府から発布された。この禁止令は、フレーベルの死後1860年に解除された。この間にかねてからのフレーベルの思想と実践に賛同し、実際的にも援助をしていたマーレンホルツ・ビューロー男爵夫人によって幼稚園はヨーロッパ各国およびアメリカにひろめられた。
 本書の26章は、今日の幼児保育者と幼児教育者養成のいわば原点である。フレーベルが、かねがね幼児教育の実践にあたって、まず保育者や教育者および指導者養成を優先しなければならないことを強調した点は、見逃がすことのできないことである。


 次の本書の後半である『母の歌と愛撫の歌』は、筆者が1976年にキリスト教保育連盟から出版した訳書をもとにして、それに若干の訂正を加え、全般の編集を変更し、それにいくつかの歌曲を付したものである。これらの曲は、玉川学園小学部の先生方によって作曲されたものである。これらの先生方の御協力に対して厚く御礼を申しあげたい。なおこの『母の歌と愛撫の歌』には、「この本を生み出した精神」と題するヨハネス・プリューファーのくわしい解説が付いている。
 フレーベルは、前に述べたように、幼稚園の普及と同時に常に母親や保育者の教育、幼児教育者の養成を忘れなかった。本書は、フレーベルが世の女性の本能的な母性を聡明な母性に高めようとするために書かれた、いわば母や保育者のための教育の書物である。ただ教育の書であるといっても、フレーベルはこり中で個々の教育原理や教育規則を母や保育者にあたえようとしているのではない。それは全く浪漫的な精神で詩や歌、絵や遊戯を通して、母や保育者が無意識のうちに乳幼児の四肢や身体をきたえ、心を育て、精神を強めるように仕組まれている。それはまた母や保育者が、この書を読むことによって、幼ないものの心を美しく純粋なものとして成長させ、崇高なものへと向上させることのできるような詩や歌に満ちている。それは全く芸術的な香りが高く、フレーベル以前の誰もが生み出すことのできなかった、教育史上最もユニークな特色をもつ母や保育者のための教育書である。

第五巻、巻末(クリックで拡大)

 本書の内容は7首の「母の歌」、50首の「遊戯の歌」、そして1首のまとめの歌からなっている。本書の表紙のひとつ〔右絵〕には、崇高な母性愛を象徴した絵が描かれてあり、自分の天職を自覚した母が、芽生えようとしている人間性を、男児と女児というふたつのの性に対して愛しなぐくみながら胸に抱き、腕にかかえている様子を示している。男児は早くからその男性的な精神に駆りたてられて外へ出ようとしており、女児は反対に母にからみついている。母は自分の天職の困難なことを感じながらも、信仰深く神に信頼して、その恵みと導きの豊かであらんことを天なる神に向かって祈っている。
 もうひとつの表紙には、父性愛を象徴した絵が描かれている〔下絵〕。この絵は男性の本質、その力と威厳およびその高い天職を自覚した父の心を示している。第一の絵が人生の教育の出発を暗示しているのに対して、第二の絵は続いて達せられる目的、すなわちこうした子どもの育成の結果を象徴的に示そうとしている。それは母の始めたものを父が完成し、母が思慮深くはぐくみ始めたものを、父が力強い行ないで作りあげることを意味している。

第五巻 巻末よりp285(クリックで拡大)

〔絵、左・上とも、説明が巻末よりp279にあり〕

 次に内容の最初の7首の歌は、新生児を見つめている母の感情、子と生命の一致を感ずる母の感情、わが子を見て幸福を感ずる母の感情、また子と遊びながら生いたちゆく子を眺める母の感情などをあらわしたものである。次の50首の「遊戯の歌」は、子どもの活動や遊びの意味を母に示すための手引きのことばと、母が子どもに向かってうたう歌と、これらの歌の意味をあらわす浪漫的なさしえとからなっている。そして各々の歌や絵の後にそれぞれの遊びの方法と、それについての教育的な意味と説明がついている。
 本書からとくに母や保育者が汲みとるべきものは、何よりもまず教育上の最も重要な面である人格の陶冶ということである。今日、保育の技術や方法はきわめて進んでいるが、その技術や方法をささえている精神的なもの、とくに人格を統一体としてとらえるという考えは不十分であるといってもいいすぎではない。その点、本書の歌や遊びには、いずれも深い精神的な意味が含まれており、ひとりの人格体としての幼児を、単なる物の世界でなく精神の世界へ導くようになっている。次に本書の中にある感覚練習の方法、習慣形成の指示、弁別力の発達に関する暗示、他の人びとのために働く奉仕的な精神の涵養などは、いずれも学ぶに値するものである。さらに本書をひもとけばわかるように、どの歌や遊びを見ても、そのひとつひとつが、人生や自然に関する単なる外形的・形式的な意味を示すのではなくて、これらの歌や遊びを通して、神への信仰、人への愛と感謝、自然物へのいたわりなどの心を育てようとしている。すなわち、神と人と自然との内的なつながりを、そして愛と感謝、信頼と従順などの宗教的感情を、幼児の予感のうちにはぐくもうとしている。
 以上のことは、今日といえども世の母や保育者が、本書から学ぶべき事柄である。とはいえ、フレーベルは決して母や保育者に、赤ん坊に向かって哲学や神について講義せよといっているのではない。また幼児教育者に幼児心理学を研究せよと強制しているのでもない。フレーベルはただ、母や保育者や教育者が、この書の中に含まれているたいせつな真理を認め、それを成長しつつある子どもたちの保育に応用することを希望しているだけである。なるほど本書の内容にはあまりにも神秘的であり、象徴的である場面があり、今日の私たちには理解しにくい点もあると思う。しかし本書には、今日のいかなる幼児心理学や幼児教育学の書物にもみられない保育上の深い精神や魂が含まれていることだけは、本書を手にする人びとの誰しもが感ずるところであろう。


 以上本書の前半の『幼稚園教育学』と後半の『母の歌と愛撫の歌』についてその内容を一瞥したにすぎない。今こうしてフレーベル全集の最後の巻である第五巻を世に贈るにあたり、感無量なるものがある。「ペスタロッチ全集がすでにわが国に出ているのに、フレーベル全集が出ていないのは、何という大学の学者たちの怠慢であることか」と言って、憤激して立ち上った故小原國芳先生の御決意がなかったならば、このフレーベル全集は未だ世に出ることはできなかったであろう。その小原先生が、この全五巻のフレーベル全集の完成を見ずして世を去られたということは、何といっても悲しいことであり、訳者の遅ペンを歎かずにはいられないのである。今はただこのフレーベル全集の完成を小原先生の御霊前に捧げ、先生の御冥福を祈るほかはない。
 今訳を終え、ペンを置き、静かにふり返ってみるとき、このぼう大な量の古典的なドイツ語、日本の江戸時代に相当する時代のドイツ語、しかも難渋きわまるフレーベルの文章をこうした形で日本の現代文に移すことができたのは、ひとえに第一巻から第五巻までの、それぞれの訳者である先生方のなみなみならぬ努力の賜物である。監修者の一人である故小原國芳先生と共に改めて訳者の先生方に心からなる御慰労とお礼を申しあげたい。ただ世には完璧な翻訳というものはとうてい期待し得るものではなく、また訳者たちの思いがけない誤りもあり得るので、読者諸賢の御叱正を賜わるならば、ありがたい幸せである。またこの全五巻のフレーベル全集がわが国の学界に初めて現われることによって、今後のフレーベル研究と幼児教育の向上にいささかとも貢献することができるならば、訳者一同のこのうえない喜びである。
 思えば、明年1982年は、まさにフレーベル生誕200周年にあたる記念すべき年である。わが国に初めて出るこのフレーベル全集が、その生誕200周年記念祭の前夜を祝す記念出版になれたことは、きわめて意義深いものである。これはひとえに、玉川大学出版部の御快挙の賜物であると思い、感激にたえないところである。とくにこの出版に対して初めからたえざる御協力を惜しまなかった出版部次長関野利之氏および編集担当の宮崎孝延氏、宮原正弘氏と平本淳子氏に心からの感謝を捧げたいものである。
  1981年2月立春の日 荘司雅子

2024.4.28記す

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