||||| 小説風・中三の夏休み |||

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(一)

 陽はすでに落ちていた。けれど、まだ薄ら明かりで稲穂がかすかに揺れているのが見える。さきほどまで赤かったが向こうに目をやれば赤みが消え黒い雲があるように見える。星も出ている。もう帰らないと遅くなると思った。(北斗七星かな。ということは、北極星がこの辺にあるはずだ)と、星と星の距離を五倍にしてみた。学校でそう習っていたからだ。星がありすぎてわからない。首をもっとひねって空を見あげると細かい星がいっぱいある。北極星はこの中にあるのだろうか。ますますわからない。
 いよいよ帰ろうと決意したとき、稲穂の上に光が見えた。何かが光っている。気づくとなんと目前でも光っている。たんぼだから近づけないけれど、それがホタルとわかった。辺りはどんどん暗くなっていて稲穂が黒く見える。初めてではないけれど滅多に見ることもないホタルが辺り一面にいる。飛んでいるのもいる。採りたかったけれど、そこまで近くには来てくれなかった。数えられないくらい光っていて幸せだった。もう道も暗くなった。来た道を帰ればいいのでそれは心配しなかった。角を一つ曲がっただけなので大丈夫だ。
 すっかり暗くなって家の灯りがはっきりしてきた。道には街灯がない。土の道で小さな石ころが見える。でも、真っ暗なのだ。月は出ていない。用心して歩いた。昨日来たばかりで、おばあさんのいる家から数百メートル、それも郵便局長さんの家の方向しかわからない。その道を覚えたので夕暮れにもう一度歩いて風景を確かめようとしたのだった。角に来た。そこを右に曲がった。たんぼばかりで土の道をまっすぐに歩けばよいだけだ。星空だけでも歩ける、真っ暗なのに。瞳孔が全開しているのだろう。最初に見えたのがおばあさんの家だった。家の前に辿り着いてもまだ暗い。庭も暗い。明るいのは縁の奥にある円卓だけだった。「どこに行ってたの。捜索願いを出そうかと思ったよ」と、おばさんがにこにこしながら言った。おばさんの言葉はわかった。

(二)

 「向こうからここまで泳いだんだよ」 叔父は得意気に言った。叔父は熊本出身で叔母と結婚し、叔母の住む大阪で私塾を経営していた。何がきっかけか思い出せないが、叔父が帰省の折、私に一緒に行かないかと誘ってくれた。その叔父が、日本三急流で知られた球磨川を横切ったという自慢話を聞いたのだ。
 「ヘリコプターで救助されたのがあそこ。テレビに出てたね。水がここまで来たんだよ」 洪水が1か月前にあったのだ。流れが眼下遥か下でピンとこない。自慢話も救助の話も。その流れがどこで溢れたのか想像はつかないが、谷が深いのでその凄さはわかる気がする。
 それからが長かった。球磨川から分かれ、大きくゆるやかに、たまに小さく急カーブになって、S字カーブをタクシーが進む。当時は国鉄だった八代駅までは地理上の位置はわかりやすかったが、路線バスで八代から日奈久まで行き、日奈久からタクシーに乗った。それからがわからない。どこから球磨川に出会ったのか。そして、球磨川とわかれたのか。狭い車室だっただけに人さらいではないが、知らない土地を訪ねる探検気分だった。
 タクシーが停まり、下車し、気づけば帰省先の庭にいた。「むぞか、むぞか」 真っ白なお婆さんが縁に座ったまま、けっこう大きな声で叫んでいる。「むぞか、むぞか」 何度も繰り返し同じ言葉を繰り返す。それしか言わない、というかそれ以外の言葉を何か言ったかもしれないけれど、このあとのことを含めて何を言っているのか、さっぱりわからない。聞き取れないのでなく、外国語を聞いているようで記憶にも留まらない。「むぞか」だけ聞き取れた。
 叔父一家3人と私の一群、その中に5歳の女児がいて、女児を見て「むぞか」と言っているらしいことはわかった。どうやら「かわいい」の意味だろうことも、お婆さんのニコニコ笑顔や目を細める様子から察せられた。

(三)

 その夜は眠れなかった。何の音だろう? 絶え間なくザーと聞こえる。寝入り端わずかに眠ったが、得体の知れない闇の音に眠れなくなった。放送劇の効果で波の音を作るとき、ふるいで大量の豆を転がす。金網の上で容赦なく音を立てる。ザーザーザー。渚のリズムではなく、立て続けに止み間なく音がする。どこから? 寝静まっている真夜中に。
 眠るまでは何故か気づかなかった。翌朝、家の裏手からはっきりその音が聞こえる。裏の景色をチラッと見ただけではわからなかった。昼になって裏手に出てみた。緑一色で深い森だ。巨木の幹の脇から下る道筋が細くある。二三歩という表現程度下っただけで川の流れが見えた。(な~んだあ。川のそばだったのか) 谷になっていてそれが景色に溶け込んでいて、中学生だった当時の私には地形を読みとれなかった。
 けっこうな水量だ。谷川といってよい程度の川幅で、両岸から覆う樹木で空が覆われていた。子どもたちが水遊びしていた。魚を獲っていたのか、泳いでいたのか、何も思い出せないが、水浴びしていたのだと思う。身に浸みて記憶に残ったのは、流れの音だった。そして、明るい田園風景と比べて秘境のようでもあった。そのとき、「あんちゃん!」と声がした。
 その声が私に向けられているとわかるのにしばらくの時間を要した。だから、「あんちゃん!」と何度もその声を聞いてしまった。呼びかけているのは男の子だ。トシは私と同じくらいか、年下でそんなに変わらない。私を呼び止めていたのだった。秘境に「あんちゃん」が木霊(こだま)した。異郷を感じた瞬間だった。知らない他人だし、どう応じればよいかわからない。血の繋がった兄弟を呼ぶような「あんちゃん」に、親しみを感じてしまった。知らない人を見かけると躊躇なく声かけしてくると学んだ。

(四)

 我が住まいに風呂があっていつでも好きなときに入れるようになったのは二十二歳になってからで、それまでは銭湯通いだった。小学生の頃、夜も八時過ぎだと湯船で人がいっぱいになり白い垢が綿のようになって一所に漂っていた。一日おきだったか曜日を決めていたかで毎日ではなかった。
 お婆さん宅で風呂に入った覚えがない。もらい風呂だ。叔父に伴って局長さん宅を訪ねた。縁先に坐った。局長の奥さんと叔父は談笑していたが旧友などの噂話で当然ながらついて行けない。昼下がりの明るい縁で眩しい光と小皿の漬物とお茶をいただいた。縁に向かって左端に風呂があり、夕方またここに来てお世話になるという。タオルを持参して、確か二度入りに来た。二度目は入るコツがわかったので覚えている。綺麗で、檜か何か木質の湯船だった。五右衛門風呂ではなかった。
 お婆さん宅は、柱、天井、縁、どこも煤けて黒っぽい。風呂がない。夜は流れの音で騒がしい。局長さん宅の縁はまっさらだった。赤い郵便のマークやポストはあったけれど、どこが郵便局なのか今一つわからない。つまり、郵便局らしい構えはあるが、屋敷のほうがよほど立派に見えた。流れからも道路ひとつ離れている。
 ある日の午後、叔父の友達らしい男がお婆さん宅の庭にやってきた。真っ黒に日焼けして腕が太い。網籠に、これも太くて黒光りしている長い生き物をたくさん持ちこんできた。うなぎだ。

(五)

 兵庫県南西部、姫路市の西に林田川がある。私はここで物心つかない頃から育った。田舎の兄ちゃんたちに連れられて行った。何度も何度も。サイダーの空瓶を流れに合わせて、つまり、瓶の口に水が流れ込むように傾け水平にして川に沈める。瓶を左手に持ち、平たい石の左側で待ち伏せ、右手を右下から石の脇に這わせる。
「入った!」
歓声があがる。こうしてうなぎを獲っていた。まだ獲れない幼い私は水に足をつけていた。陽がふくらはぎに当たるとそこだけ照らされて小魚が突っつく。たくさん寄ってきて遊ぼうというように突っつくのでくすぐったい。手をつけるとパッと散ってしまうが、ほどなく寄ってくる。
 サイダー瓶に入るくらいだから、うなぎは細くて小さい。でも、立派なうなぎだ。けれど、男の網籠には、店で売られていて見たことがあるよりも大きなうなぎが折り重なっていた。七輪に火を熾し、蒲焼きが始まった。食べさせてもらったけれど、その味や、美味しかったかどうか、さっぱり記憶がない。得意気なふうでもなく、脂ぎった男はニコニコしながら、うなぎをさばいては焼いていた。叔父はもちろんつきあって何やら談笑していたが、すっかり都会人になってしまっていた。こんな山奥から大阪に出てきて何年になるのだろう。郷里で高校の教師をしていたそうで、それからの年数を推定して10年位だろうか、当てにならないが。「電気で獲ったんや」と小声で叔父は言った。「違法や」ともつけ加えた。電気の威力を凄いと思い、男に逞しさを感じ、山村に生きる人たちの一端を見た思いがした。

(六)

 庭は国道に面していた。たまに土埃を巻き上げてバスが通る。叔父が出かけることになってバスに乗った。このときも伴にしてくれた。ボンネットバスだ。「ここは国道だよ」とわざわざ説明してくれたのは土道で凸凹道だったからだ。バス一台が通れる程度の道幅だった。乗車してまもなく、辺りは家がなかったので村を抜けたらしいところでバスは止まり、それっきり動かなくなった。道路工事の現場でバスが通れなくなった。乗客はほかにもいたが、誰も文句一つ言わない。叔父は笑っていた。
 どれくらい止まっていただろうか。長かったと思う。十分だったのか、三十分だったのか、動かなかった。そして、エンジンをかけて、やがて走り始めた。そういう時代、そういうところがこの日本にあったのだ。坂本村百済来。一九六五年八月。
 百済を「くだら」と読むことは知っていた。歴史で学んだから。百済の人がここに来たから百済来という地名に残ったということも容易に察せられた。この地をさらに山奥に進めば人吉盆地だ。なんと山奥に来たのだろうと、そのとき初めて気づいた。
 バスは日奈久という温泉町に到着し、それからは熊本市内へバスを乗り継ぎ、熊本城と水前寺公園をまわった。こんどはボンネットバスではなく地方色豊かに塗られたカラフルなバスだった。山奥の山村、ボンネットバス、カラフルな都市交通、水前寺公園、タイムマシーンに乗っているようで眩暈しそうだった。大阪から熊本への往復は関西汽船で、幼い子連れということでベッドのある船室だったが、その記憶は蒸し暑い船底ではなかったという程度だ。中国地方、瀬戸内海に面した徳山、下松、光のコンビナートから夜空を輝かす明かりを見たのはこの航路だっただろうか。
 うなぎの蒲焼き、それも焼きたてならば、その煙、匂いが記憶に残っていても不思議ではないのに、映像しか浮かばない。バスの派手な色、昼間のような工業地帯の明かりは記憶の深いところに留まっている。ホタルの光は無数に浮かぶ。どこまでが真理で、幻か。

(終)
2020.1.12記す

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