||||| ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』読書メモ |||

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ジュリアン・ジェインズ
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』
+ THE ORIGIN OF CONSCIOUSNESS
++ IN THE BREAKKDOWN OF BICAMERAL MIND
+++ 1976,1990
+ 原書名直訳「意識の起源 二院制の崩壊において」
+ 訳:柴田裕之
+ 紀伊國屋書店 2005年

p9
//意識と自然界におけるその位置づけの問題ほど、長く複雑な歴史をたどってきた問題は、ほかにはまず見当たらない。何世紀にもわたって人々は考察と実験を重ね、時代によって「精神」と「物質」、「主体」と「客体」、「魂」と「体」などと呼ばれた二つの想像上の存在を結びつけようと試み、意識の流れや状態、内容にかかわる果てしない論考を行ない、様々な用語を区別してきた。そうした用語には「直観」、「センス・データ」、「所与」、「生(なま)の感覚」、「センサ」〔※〕、「表象」、「構成主義者」の内観における「感覚」や「心像」や「情緒」、科学的実証主義者の「実証データ」、「現象的場」、トマス・ホップズの「幻影」、イマヌエル・カントの「現象」、観念論者の「仮象」、エルンスト・マッハの「感性的諸要素」、チャールズ・サンダース・パースの「ファネロン」、ギルバート・ライルの「カテゴリー・ミステイク」などがある。しかし、これらすべてをもってしても、意識の問題はいまだに解決されていない。この問題にまつわる何かが解決されることを拒み、しつこくつきまとってくる。//
※ //訳注 感覚のこと。イギリスの哲学者C・D・ブロードの造語//

p12
//もともと、こうした意識の性質の探求は「心身問題」として知られ、重苦しい哲学的解釈に傾きがちだった。しかし、進化論の出現以降は、より科学的な問題へと形を変えた。つまり、心の起源、さらに詳しく言えば、進化の過程における意識の起源の問題になったのだ。私たちが内観する主観的な経験、私たちにたえずついて回る無数の連想、希望、恐怖、愛情、知識、色、匂い、歯痛、興奮、むずがゆさ、歓喜、苦悩、欲望──これらのすばらしい内的経験のタペストリーは、いったい進化のどの時点で、どのようにして生まれたのだろう。私たちはただの物質からどうやってこうした内的世界を引き出しうるのか。もしそれが可能なら、それはいつ可能になったのか。
 この問題は20世紀の思潮の中心にあった。//

p18
//こうして、学習と意識は混同され、曖昧極まりない「経験」という用語と同一視されることになった。//

p29
//もし、今、私たちが網様体の進化を眺め、これが意識の進化とかかわっているかと問いかけても何ら良い結果は得られないだろう。それは網様体が神経系の中でもとりわけ古い部位の一つからだ。実際、この部位が神経系のいちばん古い部位であり、この周りに、もっと系統だった、特定の目的のための、高度に発達した運動神経索路と神経核が進化によって発達したという考え方が有力だ。現在、私たちが網様体の進化に関して知っていることはわずかであり、それを研究することによって意識とその起源の問題が解決するとは思えない。//

意識とは何か

p32
//意識とは何か。こう尋ねられたとき、私たちは意識について意識するようになる。そしてたいていは、この意識を意識することこそ、意識の本質だと考える。しかし、これは真実ではない。//
※国立国語研究所 資料集14(2004年)『分類語彙表』(大日本図書)↓以下↓ で「意識」を調べてみようと”ひらめいた”。

上↑
語彙「意識」↑

語彙
上左「意識」
上右「意識」
←左「意識する」
下左「意識的」
下右「意識不明」

理解する ── 馴染み深さ、類似性

p69
//何かを理解するというのは、より馴染みのあるものに言い換え、あるいは比喩にたどり着くことだ。つまり、馴染み深さが、理解したという気持ちに通ずる。//
p70
//科学における理解とは、複雑なデータとわかりやすいモデルとの間に類似性を感じることなのだ。//
p74
//現実の空間におけるありとあらゆる行為は、類推によって〈心の空間〉に転用される。//

意識の特徴://意識は比喩から生まれた世界のモデル//p87

1)〈空間化〉と〈抜粋〉

p80
//このことを〈空間化〉と呼ぶことにする。
 その好例が時間だ。この百年間のことを考えてくださいとお願いすると、みなさんの多くは、時間を〈抜粋〉して年月がおそらく左から右へと順序よく並んでいる様子を思い浮かべるのではないか。しかし、当然ながら、時間には右も左もない。あるのは前か後だけであって、空間的な属性はいっさいない(もっとも、アナログによる場合は例外だが)。〈空間化〉せずに時間を考えることはできない。絶対にできない。意識とはつねに〈空間化〉の過程であり、通時的なものが共時的なものに変換される。時間領域で起きたことが〈抜粋〉され、横に並べられて見られる。
 この〈空間化〉はあらゆる意識的思考の特徴だ。//

p299
//空間化によって、出来事や人物を意識の中に置き、過去、現在、未来の感覚を獲得することができ、その感覚の中で〈物語化〉が可能になる。
 意識のこのような特徴が芽生えた時期は紀元前1300年頃だと、少なくとも多少は自信を持って言うことができる。//

p81
//意識の中では、私たちは何かの全貌を「見ている」ことは絶対にない。「見る」というのは、実際の行動のアナログだからだ。実際の行動において私たちがある瞬間に見たり認識したりできるのは、何かの一部でしかない。意識の中でもそうだ。ある事物には様々な注意を向けうるが、私たちはその一部を〈抜粋〉し、それがこの事物に関する私たちの知識となる。意識は私たちの実際の行動の比喩なので、それ以上のことはできないのだ。//
p81
//こうした〈抜粋〉を支配する変数については、もっと検討や研究が行なわれてしかるべきだ。ある人が世界に対して持つ意識も、自分にかかわる人々に対して持つ意識もすべて、これらの変数しだいだからだ。みなさんがよく知っている人に対して行なう〈抜粋〉は、みなさんがその人に対して抱く情動と深く結びついている。もし、その人を好ましいと思っていれば、〈抜粋〉は快いものとなる。その反対なら不愉快なものになる。その逆の因果関係も成立する。//
p82
//〈抜粋〉は記憶とは別物だ。ある事物の〈抜粋〉は、意識の中で事物か事象を表している。記憶はそうした事物か事象に結びついており、私たちはそれらを通して記憶を呼び戻すことができる。もし私が去年の夏に何をしていたかを思い出そうとすると、まずその時期の〈抜粋〉をする。〈抜粋〉は、カレンダー上の二か月ほどの瞬間的なイメージかもしれない。やがて、ある川岸を歩いていたことなど、特定の出来事の〈抜粋〉に行き着くだろう。そこから、連想を広げ、昨夏の記憶を思い起こす。これが追憶と呼ばれる行為であり、どの動物にも真似できない特別な意識の過程だ。追憶とはひとつながりになった〈抜粋〉だと言える。意識におけるいわゆる連想の一つひとつは、〈抜粋〉、あるいは側面、あるいはイメージとでも言うべきものだ。それは時間の中で止まっており、その人の個性や変化する状況に応じて経験から〈抜粋〉されたものだ。//

2)アナログの〈私〉と 比喩の〈自分〉

p83
//比喩の「世界」の最も重要な特徴は、自分自身の比喩、すなわちアナログの〈私〉だ。アナログの〈私〉は、「想像」の中で私たちの代わりに「動き回り」、私たちが実際にはしていないことを「する」。もちろん、アナログの〈私〉には多くの働きがある。私たちは「自分自身」があれこれ「する」ところを想像して、決意を「固める」。その決定は、もし仮想の「世界」で行動する仮想の「自分」がいなければ不可能な仮想の「結果」に基づいて行なわれる。//

 アナログの〈私〉と比喩の〈自分〉、つまり、〈私〉と〈自分〉の関係について、その //議論はまた別の機会に譲りたい。//p84 とある。

3)物語化と整合化

p85
//私たちが〈物語化〉しているのはアナログの〈私〉だけではない。意識にあるいっさいのものだ。ある孤立した事実は、ほかの孤立した事実と適合するように〈物語化〉される。//
※「意識している〈私〉」はフィクションである、ということか。フィクションであっても、フィクションとして認識しているのではなく、〈抜粋〉された自分自身の比喩を意識しているということだろう。

p85
//様々な事物に関して過去に学習したスキーマ〔私たちが持つ知識の構成単位〕に基づき、私たちはそれらの事物を認識可能な対象物にまとめている。
 そして、意識された同化作用が〈整合化〉だ。//
p86
//〈物語化〉では事物をまとめて物語にするように、〈整合化〉では事物をまとめて意識の対象物にする。//……//一貫性あるいは蓋然性を保つための調整は、経験によって積み重ねられた規則に従って行なわれる。//……//〈整合化〉の過程では、私たちは互いに矛盾のない〈抜粋〉または〈物語化〉を行なっている。外界を知覚する際には、新しい外的刺激と自己内部の概念とが一致させられるのと、ちょうど同じだ。//

p89
//意識は人類にのみ生じえたもので、それは言語が発達してからの出来事に違いないということになる。//

閾値 いきち

p119
//統合失調症の幻覚が古代における神々の導きに似ていると考えるのが正しいのなら、どちらの例にも共通する生理的誘因があるに違いない。私が思うには、それはようするにストレスだ。前述のように、正常な人では幻覚が起きるためのストレスの閾値はかなり高い。私たちのほとんどは、悩みに悩んで、どうしようもない状態にならなければ、〔神の〕声が聞こえたりはしない。だが精神病を発症しやすい人の閾値は、いくぶん低い先ほど〔p118〕述べた女性の場合、駐車した車の中で不安な気持ちで人を待っているだけで、閾値を超えた。これはストレスによってできたアドレナリンの分解物が、血液中に増大したことによって引き起こされたのだと思う。その女性は遺伝的要因で、アドレナリン分解物を正常の人と同じ速度で腎臓を通過させることができないのだ。
 〈二分心〉の時代には、幻覚を起こすストレスの閾値は、現代の正常な人や統合失調症患者のそれよりも、かなり低かったと考えてよいかもしれない。目新しい状況に置かれて行動を変えねばならないときに感じるストレスだけで、閾値を超えたのだ。いつもの習慣どおりに対処できない。疲れているのに仕事をしなければならない。攻撃すべきか逃避すべきか葛藤する。誰に従うか何をすべきかを選択するといった、とにかく何らかの決断が要求されることがすべて、幻聴を引き起こすに足る原因になった。
 意思決定(「意思」という言葉から、意識を暗示する痕跡をすべて取り除きたいが)こそ、まさにストレスであるということが、今やはっきりしている。//

脳の機能

p132
//その答えは推測の域を出ぬにせよ明確だ。これほどまでに重大な結果をもたらしえた進化の淘汰圧は〈二分心〉文明時代のもので、当時、人間の言語が一つの半球だけで司られていたのは、もう一つの半球が神々の言葉のためのものだったからではないか。
 これが正しいとしたら、〈二分心〉の声が劣性である右側頭葉から左側頭葉に伝わるような、何らかの経路があるはずだろう。左右の大脳半球を結びつける主要な経路はもちろん、二億以上の神経繊維から成る大きな脳梁だ。しかし人間の側頭葉には、いわば専用の連結部、つまり脳梁よりずっと小さい前交連がある。ネズミやイヌの前交連は、脳の嗅覚を司る部分をつないでいる。しかし人間では、私のおおまかな図でわかるように、この横送する繊維束は側頭葉皮質の大部分、とくにウェルニッケ野に含まれる側頭葉の真ん中の脳回から集まっていて、それから反対側の側頭葉に向かい、直径三ミリメートル強の太さに圧縮されて視床下部の一番上を通って扁桃体を越えて伸びる。これこそが、両方の側頭葉を結びつける小さな架け橋だと私は考える。私たちの文明を築き、世界の諸宗教を誕生させた指令は、ここを通って伝わった。ここで神々が人間に語り、その神々は人間の意思作用であるがゆえに従われたのだ。//

p151
//したがって、顔の認識も表情の認識も、おもに右半球の機能であることがわかる。//

p153
//このような重複性と、複合的な統制、そしてその結果生じる可塑性が持つ、生物学的な目的もしくは進化上の有利性は二つある。まず、脳の損傷による影響から生命体を守ること、そして、こちらのほうが重要かもしれないが、たえず変化する環境面での問題に対する、はるかに大きな適応能力を生命体に与えることだ。ここで私の考えている環境面での難問とは、霊長類の長である人間が生き延びてきた氷河期や、もちろん、それ以上に重大な〈二分心〉の崩壊であり、それに対して人間は意識によって順応した。//

p154
//このように、発達中の神経系は、最も好ましい発達経路がとれなくなっても、無傷な組織を活用する他の発達経路をたどることによって、先天的欠損あるいは環境による欠損のいずれも埋め合わせる。神経系が完全に発達してしまった成人には、これはもはや不可能だ。通常好ましい神経組織の形態が完成されているからだ。こうした複合的な統制のシステムの再組織化が起こりうるのは、発達の初期段階に限られる。そして、これはこの議論の核心を成す、両半球の関係にも間違いなく当てはまる。
 以上のことを踏まえると、〈二分心〉時代には、ウェルニッケ野に相当する右(劣位)半球の領域には精密な〈二分心〉の機能があったが、発達の初期段階で〈二分心〉が生まれてもその発達が阻害されるような心理的な再組織化が1000年にわたって行なわれ、こり領域は異なる機能を持つようになった、と考えても差し支えないと思う。また同様に、現在、意識が神経学的にどのようであろうと、その状態がいつの時代でも不変であると考えるのは誤りだろう。ここで論じてきた例はみな、不変でないことを示しており、脳の組織の機能は絶対的なものではなく、発達のプログラムが異なれば組織構造も異なったものになりうることを示唆している。//

p160
//言語は人間なるものの本質的な部分なので、その由来は人類の歴史をさかのぼり、まさにヒト属の起源、つまり約200万年前までたどれるに違いないと一般には考えられている。知人の言語学者はみな、これが真実だと私を説得したがる。しかし、私はこの見解には断固として反対したい。人類の祖先がこの200万年を通して、原始的とはいえ話し言葉を持っていたとしたら、素朴な文化や技術さえ存在した証拠がほとんど見つからないのはなぜだろうか。紀元前4万年までは、きわめて粗末な石器以外、考古学的遺跡はほとんど何もないのだ。
 原始人が話し言葉を持っていなかったと言うと、では人類はどのように活動し、意思を疎通していたのかという反論が返ってくることがある。その答えは簡単だ。他のあらゆる霊長類と同様、視覚と聴覚に訴える豊富な合図を使っていたのだ。それは今日私たちが使う体系の整った言語とは遠くかけ離れている。//
p163
//たとえば、切迫した危険を知らせる呼び声は、最後の音素を変えながら、より強く発せられる。トラが目前に迫ってきた場合は、「ワヒー!」と叫ぶ一方で、トラが遠くにいる場合はそれほど強い叫び声を上げたりはせず、「ワフー」のように、違った終わり方で叫んだかもしれない。つまり、このような語尾が「近い」と「遠い」を意味する最初の修飾語となる。そして次の段階では、このような語尾「ヒー」と「フー」が、それらを生んだ特定の呼び声から離れ、同じ意味を保ちながら別の呼び声につけ加えられるようになる。//
p164
//たとえば「ワヒー!」が、かつては切迫した危険を意味していたとすると、叫び声の強さによってさらに区別が起これば、トラが接近した場合は「ワキー!」、クマなら「ワビー!」と叫んだかもしれない。//
p164
//紀元前2万5000年から紀元前1万5000年の間の、いずれかの時点で現れたのかもしれない。
 これはただの憶測ではない。まず修飾語、続いて命令語、そしてそれが定着して初めて名詞へと発展していったのは、たんなる偶然の順序ではない。//

p187
//紀元前1300年頃からのヒッタイト王国末期の約100年間に「パンクス」についての記述がまったく残されていないのは、「パンクス」の神々がこぞって口を閉ざしたために幻聴が聞かれなくなり、主観性の誕生に向けての苦戦の道のりが始まったことを示している可能性がある。//

p218
前3000年紀、粘土板に刻まれた楔形文字に記されていた──
//石柱の側面の磨かれた表面を、聞くことで知る。石柱に彫り刻まれた文面を、聞くことで知る。松明(たいまつ)の明かりが、聞くことの助けとなる。//
※この「聞くこと」は、刻まれた文字を読んでいるのである。しかし、それは神の言葉であるので、読む動作は聞く動作に置き換えられている。幻聴ということになるのか。

p234
//前9000年紀にエイナンの人口数百の村落に見られた社会統制の体制は、これまで取り上げてきた、神々や神官、役人の序列化した階層を伴うエジプトとメソポタミア文明のそれとは、およそかけ離れていた。//
p242
//〈二分心〉を不変のものとするのは誤りだろう。たしかに〈二分心〉は、前9000年紀から前2000年紀にかけて、どの世紀もその当時のジッグラトや神殿のごとく静止して見えるほど、緩慢な発展を遂げてきた。1000年が時間の単位だった。だが少なくとも中東では、前2000年紀に近づくにつれ発展の速度が増した。アッカド王国の神々は、エジプトの「カー」と同じように複雑さを増していった。そして神々が複雑化するとともに、その不安定さが露呈し始め、位の高い神に願い事をするときに個人の神のとりなしが必要とされだした。高位の神々は天に向かって退きつつあり、それからわずか1000年ほでですっかり姿を消してしまった。//

p249 見出し//文字による神の権威の弱体化//
//〈二分心〉は幻聴の形で神の幻覚を授けられた。それには脳の中でも聴覚部分に関連が深い皮質野が使われた。そして、ひとたび神が沈黙すると、神の命令や王の指示は、物言わぬ粘土板に書かれたり石に刻まれたりした。人間はそれを自分の努力で、求めることも避けることもできた。幻聴ではけっしてありえなかったことだ。神の言葉は、偏在して即座に服従を求める力ではなくなり、制御可能な在りかを持つに至った。これが非常に重要な点だ。//

p256
//なぜこれほど無慈悲だったのか。しかもそれが、文明史上前例のないものなのは、どうしたわけか。それ以前の社会統制の方法が完全に崩壊していたとしか考えられない。そしてその社会統制の体制が〈二分心〉によるものだった。恐怖による支配を試みて残虐行為を行なったことこそが、主観的意識の誕生寸前の局面を示していると私は考える。//

p258
//〈二分心〉は言語の獲得から派生したものだった。そしてこの時代までに言語は、文明化した環境に注意を払うことを求める語彙を持つようになり、少なくとも5000年以上前の段階への逆戻りはほぼ不可能だった。//

p260
//他人が意識を持っていることを無意識に想定し、その後それを一般化することで自分自身の意識の存在を推量しうる。//
※「心の理論」だ。

p261
//〈物語化〉は、過去の出来事の報告を成文化するものとして出現したというのが私の見方だ。文字はこの時代まで──と言っても、発明されてからほんの数世紀しかたっていないが──おもに在庫目録に使われており、神の財産の貯蔵や交換の記録手段だった。//
※漢字の成り立ちもそうだ。

p264 〈二分心〉から意識への過程
//
(1)文字の出現によって幻聴の力が弱まったこと。
(2)幻覚による支配には脆弱性が内在していたこと。
(3)歴史の激変による混乱の中で神々が適切に機能しなかったこと。
(4)他人に観察される違いを内面的原因に帰すること。
(5)叙事詩から〈物語化〉を習得したこと。
(6)欺き〔p262〕は生き残るために価値があったこと。そして最後に、
(7)少しばかり自然淘汰の力を借りたこと。//

神が現れないので、「祈り」で呼びだそうとした

p274
//神々の崇拝において祈りが中心的な位置を占める行為として顕著になるのは、もはや神々が人間と(「申命記」第34章10節の言葉を借りれば)「面と向かって」話さなくなってからだ。トゥクルティの時代には新しかったものが、前1000年紀の間に日常的になっていくが、それはすべて、〈二分心〉が崩壊した結果だと私は見ている。典型的な祈りは、次のように始まる。

神よ、強き神、高名な神、すべてを知る神、輝かしき神、自ら生まれ変わる神、完璧なる神、マルドゥクの長子……

この後さらに何行にもわたって称号と称賛が続く。

崇拝の揺るぎなき中心である神、すべての崇拝を集める神……

神々の声がもはや聞こえなくなったときの、神々のヒエラルキーの混乱が表れているのかもしれない。//
※仏教の経典では、僧の名が連綿と読み上げられる。同じことだろうか。

p353
//二元論は、プラトンの思想世界で確固たる地位を固め、グノーシス主義の洗礼を受けておもな宗教に入り込み、さらにデカルトの傲慢な断言を受けて、現代心理学では大きな偽りのジレンマの一つとなっている。//

聖書 コヘレトの言葉

p357
//旧約聖書に収められた書のほとんどは、様々な時代の様々な素材をより合わせて作られたものだ。だが中には、寄せ集めではなく、ほとんどすべてが一つの素材から作られているという意味で「純粋」と言えるものがある。そこに書かれていることはほぼそのとおりなので、成立時期を正確に特定できる。さしあたっては、こうした書だけを取り上げることにして、その中で最古の書と最新の書を比べれば、かなり信頼できる比較を行なえるし、何らかの証拠が得られるはずだ。こうした「純粋」な書の中で、最も古いのが紀元前8世紀に成立した「アモス書」(訳注 アモスは前8世紀頃に活躍したユダ王国の預言者)、そして最も新しいのが紀元前2世紀に成立した「コヘレトの言葉」(訳注 前250年~25年頃に成立した。「ダビデの子(ソロモン、コヘレトが書いた)と本文中に記されているが、著者は不詳)だ。どちらも短いので、本書を読み進める前に紐解いておかれるとよい。そうすれば、ほぼ〈二分心〉状態にある人間と主観的意識を備えた人間の違いを、自らしっかりと実感できるだろう。
 というのも、この証拠がものの見事に本書の仮説と一致するのだ。「アモス書」はほぼ純粋な〈二分心〉の語りで、砂漠に住む無知な牧夫が聞いた声を筆記者に書き取らせたものだ。対照的に、「コヘレトの言葉」には神に触れている箇所はほとんどなく、まして教養ある著者に神が語りかけることは皆無と言ってよい。そして神へのわずかな言及でさえ、この壮麗な作品を聖典に加えるために後の時代につけ足されたものだと考える学者もいる。//
※さて、わたしは読んだ。「アモス書」は読み始めてまもなく眠くなった。こらえても眠く耐えられない。一方、「コヘレトの言葉」は、どういうことだ! まったく違い、内容は感銘を受ける箇所が多い。眠くならない。
 関心を呼ばないから眠くなるのだろうか? 「アモス書」は同じ言葉の繰り返しがしつこく、左半球で読み始めたが、読書タイムは右半球に移り、右半球では読めない”わたし”は眠りをもたらされるのかもしれない。「コヘレトの言葉」にも繰り返しのリズムはある。しかし、こちらは左半球が刺激される内容で、だから眠くならないのかもしれない。

p322
//意識の出現は、ある漠然として意味で、聴覚的な心から視覚的な心への転換と解釈できる。//

信仰する心(現代においても)

p381
//心は失われた権威を忘れることができない。そしてこの思慕の念、神の意志とはからいを求める心の底からの切ない憧れは、いまだ消え去ることがない。//

自ら人体実験

p390
//巫女はまず沐浴して身を清め、聖なる泉の水を飲む。それからアポロン神の聖木である月桂樹を通して神と接触した。意識を持つようになったアッシリアの王が、精霊の手でマツカサのような実をこすりつけられている構図を思い出させる。デルポイの巫女が神と通じる際は、月桂樹の枝を手に持つか、(プルタルコスが言うように)月桂樹の葉を焚いて香りを吸い込んだり体に浴びたりするかした。あるいは、(ルキアノスが言い張るように)葉を噛んだのかもしれない。
 問いへの答えはたちどころに得られた。巫女が深く考える様子もなければ、途切れ途切れになることもない。巫女が具体的にどのようにして神託を告げたかについては、今なお意見が分かれている。//
p392
//月桂樹に含まれる成分が精神に作用して、アポロン〔神〕を感じるのではないかとの説もある。ならば確かめてみようと、私はかなりの量の月桂樹の葉を粉々にしてパイプに詰めて吸ってみたが、少し気分が悪くなっただけで、相も変わらず霊感に満たされることはなかった。葉を1時間以上にわたって噛んでもみたが、アポロンを感じるどころか、悲しいかな自分はジェインズであるという思いが募るばかりだった。外部に原因を求める説がこれほど好まれるのは、神懸かりのような心理学的現象の存在そのものを認めたくない一部の人々の気持ちの表れと言えるだろう。//

音楽と(脳の)右半球

p441
//発話がおもに脳の左半球の機能であることは、以前から知られている。しかし歌は、おもに右半球の働きらしいことが明らかになりつつある。//
p444
//考えを歌で表現する練習をしておけば何かの役に立つかもしれない。//
※幼児の発話にはメロディーほどではないが抑揚が伴う。保育の現場での幼児集団の指導(合図)は、「応答(問答)」を前提にした声かけがよくある。わらべうたで演じられる歌垣(うたがき)」をわたしは連想する。幼児の思考は右半球が優位なのかもしれない。
p445
//音楽にかかわる機能が右半球に局在していることは、ごく幼い子供にも見てとれる。//
p445
//人間の脳は生まれながらに、ウェルニッケ野に相当する右半球の領域への刺激、すなわち音楽に「従い」、そこから注意をそらさぬようにできていると考えられるからだ。〈二分心〉時代の人間が、脳神経の配線の仕組みによって、右半球の同じ領域からの幻聴に従わざるをえなかったという私の仮説と一致するではないか。さらには、人間の発達にとって子守歌がきわめて重要であって、もしかしたら子供の将来の創造性を左右しているかもしれないことも、この実験〔ウェルニッケ野に関する実験〕からうかがえる。
 音楽が右半球の働きかどうかは、自分でも確かめられる。両耳にイヤホンを差し込んで、左右別々の音楽を同じ音量で聞いてみるとよい。左耳から入った音楽のほうがよく聞き取れるし、よく覚えていられる。左耳で捉えた信号のほうが多く右半球に伝わるからだ。//

※「脳機能の局在」については脳神経について学んでいる最中、その結果として、その認識のもちかたについては注意が必要と思うようになった。脳神経の専門家がそう言っているのだから(しかし一方で脳機能の局在について偏向をもちらしているのは同じ脳の専門家である)。言語機能は左半球が優位であることはよく知られている。この本の著者も必ずしも左半球にあるとは限らない、としている。──そういう背景を踏まえながらも、神が右半球に”存在する”ことを理解するためには「局在論」を前提にしないと議論が深まらない。そして、同時に、乳幼児の外界認識は、右半球優位ではないかと思う。言い方を変えれば、左半球の発達に先んじて右半球が優位にあると言える。
p128
//この領域について語るにあたっては、混乱を避けるため、この章に限らず本書の最後まで、右利きの人のみを想定して話を進むていく。体の右半分を支配するのは大脳の左半球であり、右利きの人の言語野はここに存在する。このため一般に左半球は「優位半球」と呼ばれ、一方、体の左半分を支配する右半球は「劣位半球」と呼ばれる。ここでは、すべての人において左半球のほうが優位であると仮定して話を進める。しかし実際のところ、左利きの人の左右の半球における優劣の度合は様々だ。完全に左右が切り替わっている(通常左半球がする働きを右半球が請け負う)人もいれば、そうでない人もいて、さらには両半球に優位性混在している人もいる。しかしそういった人が人口のわずか五パーセントと例外的であることを見れば、ここでは除外して考えても差し支えないだろう。//

子どもの意識確立時期

p479
//催眠術にかかりやすい年齢は、8歳から10歳でピークを迎える。子供は大人を全知全能の存在として崇める思いがことのほか強いため、施術者が「古き権威」の役割を果たしやすくなる。//
※訳注 //催眠術に一番かかりやすい年齢は、意識が完全に確立した直後だという仮説〔……〕//
p481
//幼児期に見られる「空想上の友達」という現象については、今後の〔著者死亡で実現せず。残念〕著作で詳しく論じるつもりだ。ただ、この現象もまた〈二分心〉の名残りと見なせることだけは指摘しておきたい。私が面談した人の優に半分は、自分の「友達」が話す言葉は、目の前にいる私の声と同じ質感を持って聞こえていた、と答えている。つまり、本物の幻聴だった。「空想上の友達」が現れやすいのは3歳から7歳の間で、子供の意識が完全に確立する直前の時期にあたると私は考えている。//
※7歳までは意識が確立せず、確立するのは8歳から10歳の頃ということになる。わたしは、「幼児」は7歳までとしていることと、8歳・9歳は移行期であるとしていること。10歳以降を”おとな”としていることと符号する。
※ただし、この引用部分は意味が曖昧だ。「完全に確立する直前」の「完全に」が不確かだ。生まれたばかりの新生児に、いわゆる自意識はないとしても、母(と認識しなくとも)を認める意識は存在するのではないかと、わたしは思う。他者理論を導入することで引用部分は成り立つと思う。

第三部 第五章 統合失調症

p490
//たいていの人は生きている間に、現実の〈二分心〉に近いものにふと戻ってしまうことがある。人によっては思考力がなくなる、あるいは何かの声が聞こえるといった出来事が二、三回起きるだけで済む。しかしドーパミン系の働きが活発すぎる人や、長く続くストレスで生まれる生化学物質を簡単に分解して排出できる形にするための酵素が不足している人は、はるかに悲惨な体験をする──仮にもそれが体験と呼べればの話だが。自分を非難し、何をすべきか命令する、抗い難い力を持った力を持った声が聞こえる。それと同時に、自己の境界がなくなるように思われる。時間が崩壊していく。本人はそれを知らずに行動する。〈心の空間〉が消えていく。彼らはパニックに陥るが、パニックは彼らに起きているのではない。彼らはどこにもいないのだ。どこにも拠り所がないのではない。「どこ」自体がないのだ。そしてそのどこでもない場所で、どういうわけか自動人形になり、自分が何をしているのかわからぬまま、自分に聞こえてくる声や他人に操られ、異様でぎょっとするような振る舞いをする。気づいてみれば病院にいて、診断結果は統合失調症だという。だが、じつは彼らは〈二分心〉に逆戻りしているのだ。
 本書のこれまでの議論から明らかになった仮説の紹介の仕方としては、おおざっぱすぎるし、おおげさでもあるにせよ、少なくとも刺激的ではあるだろう。なぜなら、ここに示した見解は、あの、最も一般的で治りにくい心の病、統合失調症の新しい概念を提起することがきわめて明白だからだ。その概念とは、これまでの章で論じられた諸現象と同様に、統合失調症も少なくとも部分的には、〈二分心〉の名残りであり、〈二分心〉の部分的再発である、というものだ。本章ではその正否を論じることにする。//
『ドン・キホーテ』を思い浮かべる。『24人のビリー・ミリガン』が思い浮かぶ。

p491
//本書の仮説によると、前2000年紀より前誰もが統合失調症だった//

p493
//今日、統合失調症と呼んでいるものは、神々との関係として人類の歴史に登場し、紀元前400年頃になってようやく、現在知られているような、人の能力を奪う病気と考えられるようになった。//

p500
//信仰や神々そのものの起源が〈二分心〉にある//


p527
//人類がこの地球上で過去4000年にわたって演じてきたこのドラマ、この長大なシナリオは、世界の歴史の中核を成す知的傾向を大局的に見ると明らかになる。
〔1〕前2000年紀に、人間は神々の声を聞くのをやめた。
〔2〕前1000年紀には、まだ神の声が聞こえた人たち、つまり託宣者や預言者もまた、徐々に消えていった。
〔3〕紀元後の1000年紀には、かつて預言者たちが言ったり聞いたりした言葉の記された聖典を通して、人々は自分たちには聞こえぬ神の言いつけを守った。
〔4〕そして2000年紀には、そうした聖典は権威を失った。科学革命によって、人々は昔からの言い伝えに背を向け、失った神の権威を自然の中に見出した。
〔──〕この4000年の間に私たちは、ゆっくり、容赦なく、人類を俗化してきたのだ。そして2000年紀の最後に来て、その過程は完了しつつあるようだ。権威を求め、自然の中に神の言葉を読みとるうちに、私たちはひどく間違っていたのだと思い知らされるとは、地球上でもっとも崇高かつ偉大な努力が生んだ、人間の大いなるアイロニーだ。//

吉田徹『くじ引き民主主義』光文社新書 2021年
p172 見出し //神なき時代の民主主義//
//古代であれば、幸福であれ、不幸であれ、人にそれをもたらすのは神の差配だと信じられていた。ゆえに古代ギリシャや中世の時代は、神託や啓示をもっとも聖なるものとみなしていたのだ。イスラム教圏では、今でも多くの出来事は神(ムハンマド)の意思だ、という認識が広く共有されている。自分では思うようにならない出来事があるからこそ、つまり神の存在を仮定するからこそ、人は祈り、そして謙虚になる。先に紹介したエルスターの議論もそうだが、人は自分の選択でないからこそ救われるという局面を経験することもある。逆に、成功や失敗の全てが自分の選択の結果だとされてしまうと、人は尊大になったり、卑屈になったりして、不自由になる。いわば、自分に振り回されてしまうのだ。ゆえに、偶然は人の思考や行動をむしろ解放する側面があるのだ。哲人王の必要性を悟ったプラトンも、長編『法律』(第6巻)で、全ての市民に名誉を授けるような平等は、くじ引きとゼウスだけで可能だ、と説いていた。だから、くじは神なき時代に神の役割を果たすものともいえるだろう。
 もちろん、神なき時代を迎えた現代で、神の意志だけに従うことはできない。人が合理的に世界を認識するための近代科学の発展が、神の意志をよりよく把握しようとするキリスト教精神と無縁ではないにせよ、科学を手にした現代で、世の全てを偶然に任せることは、害悪の方が多いだろう。
 それでも、政治を変えた時、統治を神の意思によらず(王権神授説の否定)、貴族制も否定した近代において、その正当な根拠は、民主主義であるということ以外に答えはない。民主主義にくじ引きを持ち込んで偶然の要素を幾何(いくばく)か持ち込むことは、悪いことばかりではない。民主主義が紆余曲折を経ながらも今日まで続いてきたのは、絶対主義や独裁主義と異なって、何が「正解」かを、常に保留にしておく政治だからだ。絶対主義であれば、神の意思を地上で実現すること、独裁主義であればリーダー個人が共同体にとって善きことが何かを予め決め、それに従うことが「正解」となる。//

リチャード・ドーキンス『神のいない世界の歩き方』ハヤカワ文庫 2022年
p69
//当時は神と直接話ができた。ヨシュアは、空で太陽がじっと動かないようにすることによって日暮れを先延ばしにしてくれと、神に頼むだけでいい。神は頼みを聞き入れ、太陽が止まったので、ヨシュアは必要な特別長い一日を手に入れた。//

2024.12.1記す

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