|||||「わらべうた」と音楽教育 |||

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あらまし

1:わらべうた
---小島美子は「わらべうた」から「民謡」へと導くことが、日本人の音楽感覚に沿っているという。クラシックなど西洋音楽が”音楽”と思い込まされ、わらべうたや民謡を民俗芸能の一分野に押しとどめていると批判している。
 わらべうたは子どもにとって遊び歌である。遊びの衰退に「わらべうた」が関与しているだろうことに驚かされる。
2:子守唄
---子守唄は郷愁をさそう子どもの歌ではない。悲哀を伴う子どもの労働歌である。
3:歌垣 うたがき
---//歌垣とは歌を掛け合うという歌掛きだといわれたのは土橋寛氏だが、これはもう多くの人々が認める定説になった(土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』岩波書店)。//小島美子『音楽からみた日本人』NHK出版 1997年 p82
---「〽もういいかい」「まあだだよ」/「〽もういいかい」「もういいよ」。かくれんぼで掛け合う声の交歓。これも歌垣である。
4:童謡運動
---上記(1)は童謡運動のこころであった。しかし、残念ながら、挫折している。

子どもの社会とわらべ歌:小島美子(こじま・とみこ)1929年生まれ

『子どもの発見』朝日カルチャー叢書
+ 小島美子ほか共著
++ こじま・とみこ 1929年生まれ
+ 光村図書 1985年
+ p49~90

p52 「わらべ歌とは何か」の節
//わらべ歌は、”子どもの労作歌” “子どもの仕事歌”といって過言ではありません。子どもの遊びのための歌ですから、これは集団で伝えてくるものです。一人が一人から直接教わることも少なくありませんが、一つの遊びのグループでは同じ歌をうたっているので、集団で伝承する場合も多いのです。//
※子どもの「遊び」は、おとなの「仕事」に相当する。p51-52要旨

p52
//私たちが調査に行って、絵描き歌などを子どもにやらせていると、その間にほかの子が新しい歌を作って「先生、こんなのできた」と持ってくることがよくあります。わらべ歌は身近なところで、年中、たくさん作られているのです。そのようにわらべ歌はいまも生きているのだと先程お話しましたが、多くの方はそうは思っていないようです。//
p52
//例えば小学校などに電話して、「わらべ歌の録音をさせて欲しいのですが……」と切り出すと、どこの学校でも、「うちの学校の子は、わらべ歌などうたっておりません。『あんたがたどこさ』くらいなら学校で教えているのでうたえると思いますが、ほかの歌はどうも……」と返答されるのが普通です。
 しかし、私たちがそれらの小学校に行って録音を始めると、わらべ歌は次から次へと出てきます。//

 このあと、「わらべ歌はいまも生きている」という「証拠」が次々と書き著せられています。この本の刊行年が1985年。取材は当然これ以前に行われている。学校の先生が上述のように否定するものの事実は反し、「次から次へと出て」くる。当時において、教育現場の認識をうかがい知ることができる。しかしながら、加古里子の調査においても、1980年代を境にして、伝承遊びは顕著に衰退する。1990年代は衰退が加速している。完全消滅することなく、機序はわからないが、わらべ歌が全国のどこかで散見できるかもしれない。が、それをもって、子どもの遊びが”生き残っている”とは言い難いのではないか。

p52
//〽せっせっせーのよいよいよい
 おちゃらか おちゃらか おちゃらか ホイ//

p54
//1976年に、コロンビア・レコードのスタジオに東京の子どもたちに来てもらって、わらべ歌を録音したことがあります。//
p55
//『あんたがたどこさ』//……//『〽せっせっせーのよいよいよい』//……//『〽あーぶく立った 煮え立った』//……//『あした 天気に なれ』//

p56 縄跳び歌
//〽お嬢さん お入んなさい
ありがとう
じゃんけんぽん
あいこでしょい
負けたらさっさとお出なさい//
p56 縄跳び歌
//大波小波
ぐるりと回って猫の目//
p57 お手合わせの歌
//せっせっせーのよいよいよい
アルプス一万尺 穂槍の上で
アルペン踊りを さあ踊りましょ
ターラララ ラララ
ラーラララ ラララ
ターラララ ララララ
ラララララ//

p57 上述p54レコード収録内容
//鬼遊び
「あぶく立った 煮え立った」
「かごめかごめ」
「花いちもんめ」
「通りゃんせ」
「たけのこ一本」
「今年のぼたん」
縄跳び歌 ゴム縄跳び歌
「おじょうさん」
「大波小波」
「郵便屋さん」
「一はっさ」
「きんし輝く」
「入って出て」
お手合わせ歌
「お寺のおしょうさん」
「げんこつ山のたぬきさん」
「おちゃらかホイ」
「桃太郎」
「アルプス一万尺」
じゃんけん歌
「じゃんけんじゃがいも」
「グリコとグリコ」
からだ遊び歌
「だるまさん、だるまさん」
「貧乏 大じん 大大(おおだい)じん」
「茶、茶壺、茶壺」
「なべ、なべ、底抜け」
「おせんべ焼けたかな」
絵描き歌
「みみずが三匹」
「三ちゃんが」
「棒が一本あったとさ」
ことば遊び歌
「ソーダ村の村長さんが」
「いろはにこんぺいとう こんぺいとうは甘い 甘いはお砂糖」
など、しりとり歌、ユーモラスな歌など。
「いちじく にんじん さんしよでしいたけ」など、数を読み込んだもの。。
「瀬戸ワンタン……」の類の替え歌。
「でぶ でぶ 百貫でぶ」
「ばか かば ちんどんや」などの悪口歌など//
p59
//〔A面〕全部で53曲になりました。B面でも55曲を収録しており、それ以上に子どもたちは相当の数のわらべ歌を知っていました。
 大人たちが「子どもたちはもうわらべ歌をうたっていない」と考えるのは、わらべ歌に〈古い〉というイメージを抱いていることと、自分たちが小さい頃にうたっていたのとは違うわらべ歌を子どもたちがうたっているので、それをわらべ歌だとは思わなかったりするためです。それでも、昔と同じものも結構あります。「あーぶく立った 煮え立った」を「あーずき立った 煮え立った」ということばで東京で数十年前にうたった人たちもいます。わらべ歌は決してなくなっていないのです。ただ、少しずつ変形はしていきます。例えば、「勝ってうれしい 花いちもんめ」なども昔の「ふるさとまとめて 花いちもんめ」という歌詞は少なくなりました。//

p60
//昔のままうたっているような歌は、死んだわらべ歌なのです。//

p61
//輪ゴムをつないで縄のようにし、それを二人が川の字のような形に両側から持ちます。そして別の人がその横に立って、歌に合わせて跳びながら、足にゴム縄をひっかけたり、足をゴム縄の間に入れたりする遊びです。私たちが小さかった頃のゴム縄跳びは、二人が縄の両端をもって渡して、そこを跳び越え、一年、二年と一段ずつ上げていくのしか知らなかったのですが、戦後の子どもたちはこの縄跳びをさかんにやっておりました。//

p65
//三歳くらいの子でも、すでに七五調というものを身につけているのがわかります。//

p68 節の見出し//音楽教育の問題点//
//わらべ歌や民謡こそが音楽の出発点であるとは、日本では親も先生も考えませんから、音楽教育というとそういうものは全部無視して、ピアノ教室の類に連れていったり、学校でもクラシックだけを教えたりするのです。そうなると、子どもたちは○○教室や学校で習うようなものだけが音楽だと思いこんでしまいます。その結果、それまで創造性豊かに育ってきた子どもたちがそこで挫折することになるわけです。例えば、歌をうたうにしても、小学校に入ると、「頭のてっぺんから声を出せ」といわれますね。「頭声的発声」と指導要領には書いてあります。つまり、ベルカントといわれるクラシックの発声法で声を出すことを小学校では理想としているのです。
 子どもたちは、「このように声を出せ」といわれるとそれまでの歌い方とはちがいますから、うたえなくなります。先のレコードに収録した子どもたちの声はいわゆる地声ですが、ごく自然でした。はっきりした発声ですし、子どもたちはのどを全然痛めていません。しかし幼稚園や小学校では、「地声でうたうと疲れるからいけません」とか、「よく響かないからいけません」などといって、子どもたちに無理やり頭のてっぺんから声を出させるのです。しかしその声は不自然ですから、美しくもないし行き生きもしていません。ですから、私は学校の先生には、「話し声と同じ声でうたうのが、日本の子どもたちにとって自然ではないでしょうか」といつもいっています。
 このように声の出し方一つにしても、音楽教育を始めることによって、かえって駄目にされているのです。この現実は子どもたちにとって本当に不幸なことだと思います。いまのような音楽教育を押しつけなければ、いまの子どもたちにも豊かな創造性はいくらでもありますし、伝統は根強いのです。
 これほど洋楽教育を徹底してやっても、子どもたちはまだまだ昔の日本人と同じような伝統的な音楽感覚を引きついでいるのです。//
p70
//だからこそ音楽教育は、わらべ歌つまり伝統的な音楽感覚を大切にするべきだと思います。//

小島美子『音楽からみた日本人』NHK出版 1997年
p106
//子どもたちが「せっせっせ」や「かごめ」や「花一匁」を歌うとき、けっして頭声発声では歌わない。こういう遊びの仲間に入れてもらえない男のいじめっ子たちが、「あーららこらら、先生にゆってやろ」などと歌うときも同じだ。そしてこれらの声は日本語も明快で、伸び伸びと自然で美しく解放された声である。かなりの音量もある。//……//そして日本の歌の声の原点はこれである。この声を自然にのばしたのが、本来の民謡の声である。//
p108
//日本の学校では、まず子どもたちのわらべ歌の声を基本にすえ、そこから民謡の声へと連なる線を中心に教えるのが自然であろう。//……//学校の先生方の中には、今の子どもたちは大きい声で歌わないと嘆く方があるが、歌いたくなるような、子どもたちの心が解放されるような条件を作っておられるのかどうか、うかがってみたくなる。//

p74 節の見出し//わらべ歌の伝承性と地域性//
//何といっても同じ遊び仲間によって、歌は伝わっていくのです。//
p74
//現代は子どもたちの移動が非常に激しく、全国の子どもたちのわらべ歌の80パーセント以上が共通になってしまっています。戦争中の学童疎開もわらべ歌の交流をうながす一つの要因でした。//
p75
//しかし最近、共通語(標準語)教育やマスコミの影響が大きいせいもあって、わらべ歌においても方言の豊かさが非常に少なくなってきています。//

p75
//子どもの数が少なくなるとわらべ歌は衰えていきます。私たちは山奥の村に度々調査に出かけますが、完全に過疎化した村ではわらべ歌も少なくなってしまいます。子どもたちが生き生きと子どもたちの社会を作って暮らせるところでないとわらべ歌は生きていかれない、ということを過疎の村の調査のときに痛感させられます。それでも、一つの村に百人くらいの子どもがいれば、わらべ歌は十分育っているのです。しかし、過疎が進行して一つの集落に子どもが二、三人などという状態になると、わらべ歌はそこでは生きていけなくなってきます。わらべ歌はへき地に残っているだろうと想像している人がいますが、それはまちがっています。//
p77
//子どもの歌に限らず歌というものは、ある一定の社会とか共同体がなければ成立し難いのです。自分ひとりでぶつぶつとうたう歌もありますが、ふつうは何かの形でコミュニケーションをしたいという思いが歌をうたわせる原動力になっているわけで、その意味ではやはりそのような思いを秘めた人たちが人間らしく生きていく社会が必要なのです。//

子どもの仕事歌「こもりうた」

『音楽からみた日本人』p11

p77 節の見出し//わらべ歌から子守唄、民謡へ//
//日本の伝統的な歌をいろいろ分類して調べてみて考えさせられるのは、子どもたちのうたうわらべ歌と大人たちのうたう民謡との間にかなり落差があることです。このことは実は音楽教育上も非常に問題になっているのです。「わらべ歌から始まる音楽教育」を私たちは主張してきましたが、それはわらべ歌は先生が教えるものではないので、最初にわらべ歌から入って、それを基礎に音の世界をいろいろ広げていくわけです。その場合、わらべ歌やわらべ歌と同じような歌をうたっていた段階でかなり創造的であった子どもたちは、その上の段階をどうやって広げていったらよいかが問題なのです。私は、洋学的なものを拒否するつもりはありません。ジャズだから、ロックだから、歌謡曲だからいけないというのは大人の勝手です。子どもたちの感覚は変わっていくのですから、彼らが共感できるものをなんでも取り入れていいと思います。ただ、子どもたちにとって一番楽にうたえる伝統的なものがせっかく育ってきているのに、わらべ歌の次の段階を何にしていくか、どのようにしたら民謡までつなげることができるかということになると、音楽的にかなりの飛躍があって困るわけです。//

p78
//そのときに一つのつなぎの段階としてありうるのは子守歌です。子守歌は親が、あるいはお年寄りが子どもを寝かしつけるためにうたう歌、と一般には考えられています。確かに世界的に見ればそういうものが多いのでしょうが、日本の場合には、むしろ子守娘の仕事歌という性質が強いのです。昔、貧しい家庭の子どもたちはまだ本当に幼い七、八歳、場合によってはもっと小さい頃から子守に出されました。また子守に出されないまでも、自分の弟や妹をおんぶして大人の仕事の邪魔にならないように、生活の一翼を担って働いていることが多かったのです。弟や妹をおんぶしたまま、あるいは子守にいった先の子どもたちをおんぶしたままで学校へ行く例もたくさんありました。また、子守のために学校に行かれない子どもも随分いました。ですから、子守歌は十歳前後の子どもたちの仕事歌だった、と考えることができます。したがって子守歌の歌詞は、お母さんが子どもたちに聞かせる、あるいはお祖母さんが子どもに聞かせるような愛情に満ちたものばかりではありません。四国や京都などで聴いた子守歌はかなり残酷なもので、例えばこんな歌もありました。

 〽つらのにくい子を まな板にのせて
  青葉切るように ザクザクとよホホー

  切ってきざんで 油であげて
  道の四辻に とぼしおくよホホー

  人が通れば 南無阿弥陀仏
  親が通れば 血の涙よホホー

 日本の歌で残酷なのは少ないのですが、子守歌の中には結構あるのです。子守の生活があまりにも辛いから、こんな歌詞になってあらわれてくるわけです。
 次にご紹介するのは、東京都板橋区の徳丸に住むおばあちゃんが子どもの頃に自分の妹を子守したときの話とわらべ歌です。//
p80
//夕方になるとね。みんな帰っちゃうけんど、百姓だからまだ家が片付かねいでしょう? だから、昼に寄って暗くなるまで家へ入れないからね。三人でも四人(よったり)でも守っ子同士が集まって、歌でもうたって遊んでねーけりゃしょーがねーから、そいでやっただね、わたしらは。他の人はどうだか知らねけんど。
── そうすると、赤ちゃんをおんぶして、みんなでうたうのですね。
 おんぶしてね。家の近所の二人でも三人でも四人でもね、みんな寄り集まっててね。そいでいよいよ暗くなったらね、別れて帰ったの。そんなことにうたっただからなんで、いいことだか悪いことだか年寄りの人がうたってるの聞いて覚えただから知らね。みんなそうなの、わたしらは。//
p80
// 〽白い手拭い 白足袋で
  ひーや ふーや みーや よーや いーや むーや なーや やー こーの とー
  〔※やー こーの とー〕
  とおから落ちたお芋屋さん
  お芋一升いくらする
  三百三十三匁
  あんまり高いや 芋屋さん
  お前のようなら 負けてやる
  ザルを出し ますを出し まな板 ほうちょう出しかけて
  頭を切られる八ッ頭
  尻尾を切られる唐の芋
  隣のおばさん お茶のみおいで
  芋の煮たの ご存知ないかい
  あとでおならがポーイ、ポーイ
  まずまず一貫貸し申した//
p81
//この非常に陽気にうたってくださったおばあさんは、農家で生まれ育った今年90歳の方です。
 こういうふうに、昔の人たちは自分の弟妹たちをおんぶして夕方暗くなるまで子守をしながら、歌をうたって遊んでいたわけです。この例の場合は子守歌ではなくてわらべ歌をうたっているのですが、子守に行かされている子は本当に辛い思いをして子守歌をうたっていました。着物を一枚もらうぐらいの約束で一年なり二年なり奉公に行くのですから、子守の生活の辛さも起きて泣く子の憎たらしさもうたうことになるのですね。//

『昭和の子どもたち 4 遊びと仲間』(学習研究社 1986年)

下の写真:p78 チャプション//弟の子もりをしながら丹下左膳のまねでもしているのでしょうか。「ねんねこ」が、ちょっと大きすぎますね。(秋田県)// 撮影:佐藤久太郎

下の写真:p79 チャプション//手づくりのうば車で、あかちゃんの子もり。(長野県)// 撮影:熊谷元一

下の写真:p76 チャプション//子もりをしながら、パチンコで遊ぶ。(東京都)// 撮影:菊池俊吉

下の写真:p77 チャプション//「いずめ」の中のあかちゃんをあやす男の子。わらであんだ「いずめ」は、あかちゃん用のベッド。(秋田県)// 撮影:佐藤久太郎

下の写真:p76 チャプション//ままごとをしているうちに、背中の子はねむってしまいました。(秋田県)// 撮影:佐藤久太郎

下の写真:p77 チャプション//きょうだいがおおいので、お母さんのかわりもたいへんです。(東京都)// 撮影:清宮由美子

下の写真:p79 チャプション//子もりをしながら、子どもはしらずしらずのうちにお母さんのたいへんさをしりました。子もりをしながら絵本を読む。(秋田県)// 撮影:加賀谷政雄

p18
//古い『いろはカルタ』に「貧乏人の子だくさん」というのがあります。戦前の生活は貧しく、このカルタにあるように、子どものおおい家がたくさんありました。五人きょうだいなんてふつうでした。
 だから、小学校三、四年ぐらいの女の子は、学校から帰ると子もりをさせられました。子どもが、子どもをあやしながら遊んだのです。弟や妹のいない女の子は、こづかいをもらって、よその子の子もりをすることもありました。子もりをしながら、「かくれんぼ」をしていると、とつぜん背中の子が泣き出し、おにに見つかることもありました。子もりをするために、学校を早びきする子もいました。//

p76
// ねんねん ねんころ
  寝た子のかわいさ
  おきて泣く子の つらにくさ
──岡山県につたわる子もり歌だそうです。これはお金持ちの家に子もりとしてやとわれた少女たちの歌ですが、各地に子もりのつらさをうたった子もり歌がたくさんつたわっています。
 ふつうの家庭で保育園に子どもをあずけるようになったのは、昭和30年代からで、それまでは上の子が下の子を子もりしながらそだてたものです。背中で泣きじゃくる子をあやしてねむらせ、おこさないように気をつけながら遊びました。群れになって遊ぶ子のなかに、ひとりやふたりは子もりしている子がまじっていて、お乳の時間になると、遊びをとちゅうでやめて母親のところへいそいで帰ったものでした。//

下の写真:p54 チャプション//「かごめかごめ かごの中の鳥は いついつ出やる」とうたいながら遊ぶ子どもたち。年かさの子も小さな子も、いっしょに。(東京都)// 撮影:石井彰一

かつて、大きいお姉ちゃんに遊んでもらった。意味深い写真だ。

下の写真:『写真集 子どもたちの昭和史』大月書店 1984年
p36 チャプション//子守り学級 1940(昭和15)年以前 長野市・城山小学校//……//むずかる子どもをあやしながらの勉強はたいへんです。「今はこうして子守をすれど 一生無学で暮らしゃせぬ守は言葉も行儀も大事 背の子どもの手本ぞや……」(子守り学校の歌)。しかし、かよいきれない子も多かったようです。//


小川太郎『日本の子ども』新評論 1960年
p223
//人身売買が法律によって禁止されたのは明治5年であったが、昭和24年児童福祉法のもとにおいて920人の人身売買が発見されており、それは秋田・山形・福島などの貧しい東北諸県に多く出ている。最高15,000円、最低400円の前借という形で、はっきりした契約書もなく契約期間も決められないで売られる子どもの業務は、接客婦・酌婦・特殊喫茶女給・芸妓・農家手伝・作男・子守り・女中・下僕・工員徒弟・店の手伝いなどである。//
p223
//子守りは必ずしも売られた子どもではない。ちょうど農村の貧農の男の子が作男として他家で働くように、女の子は子守りとなってしばらく親のもとを離れるのがならわしであったが、その生活が男の子の徒弟や丁稚や作男に似たきびしいものであったこと、また子どもは子守りのために学校の生活を犠牲にしなければならなかったことは明らかである。「家郷の訓」の筆者の母は明治初期10歳のころに子守りにいったが、「若様」を学校に送り迎えする際に、教室の窓の外から黒板を見て字を覚えたという。義務教育がやかましくなって後、子守り学級を作った学校もあちこちにあらわれ、そこでは学年の別を廃して小さい子どもをつれた子守りの教育をした。運動会にはその学級だけが、ねんねこで子を負い、手拭をあねさんかぶりにして、子守唄をうたって踊ったということもあった。そうした子守りの境涯については、数多く蒐集されている全国の子守唄がこれをよくあらわしている。

 親とをりたい 朝寝がしたい 朝の御飯ができるまで
 泣いてくれるな 泣かいでさへも ひねるつめると思はれる
 奉公する身と走りの板は 辛い言葉を受け流す
 こんな泣く子の守りするよりも わしは機やへ管巻きに
 親が難儀すりゃ子まで不憫(むぞ)や おなじ子供の草履とる

 子守りは唄うことがその仕事のひとつであったから、このように子守りのつらさを唄ったのであるが、それは子守りの唄であるだけではなく、親を離れて他人の中で働かなければならない子どもたちみんなの唄でもあったということができるであろう。奴隷である子どもから工場の賃労働者となった子どもに至るまでの子どもの境涯を、子守りが声にしてあらわしていたのである。//

小島美子『音楽からみた日本人』NHK出版 1997年
p11
//日本の民衆の歌の中でもっとも残酷な歌の系譜は子守歌で、起きて泣く子は切り刻んで川に流してしまいたいというような歌詞も珍しくない。十歳前後の幼い女の子たちが子守り奉公にやられて歌う労作歌だから、その辛さが露(あらわ)になっているのだが、これをまともに口でいわれたら、雇い主はどんなに怒ったことだろう。自分たちの境遇を悲しんでいる歌というよりも、幼い子どもたちなりの抵抗の歌ではないかと私は思う。//
※「抵抗」の文言に、著者の憤りをわたしは感じる。十歳前後の子どもに可能で現実的なこころと読み取ってよいだろう。

得ることで、失うものがある
「子守(娘)」を解放するため「保育」が始まったことに触れている

歌垣(うたがき)

小島美子『音楽からみた日本人』NHK出版 1997年
p82
//歌垣の一番わかりやすい形は、子どもたちの「花一匁」である。二組に分かれて「勝ってうれしい花一匁」と歌い始め、最後は相手の組からお互いに一人ずつ選び出し、この二人がじゃんけんなどをして負けたほうが相手側にとられてしまう遊びだ。「たんす長持ちどの子がほしい」という歌詞が暗示しているように、これは歌によって嫁選び、婿選びをしているのである。//

『音楽からみた日本人』p83

小島美子『日本童謡音楽史』第一書房 2004年

p231 童謡運動の歴史的意義
//童謡運動は北原白秋のいうように「日本童謡の伝統の開展」をめざしておこった。小学唱歌を批判して、童謡すなわちわらべ歌の伝統を復興し新しく発展させようとした。それは文学の側からおこり、やがて音楽の側も協力して、これまで述べてきたような多くの成果を得た。しかし童謡運動はその真の目的を果たしただろうか?
 白秋は「童謡はまさしく復興した。……この現在を思ふと踊躍される」と自信と感激に満ちて述べている。しかし国文学者の高野辰之は「作家諸君の歌は、たしかに日本の民謡風童謡風な表現に成るが、曲は西洋の民謡童謡、否作家諸君の排斥する唱歌式のものでありはしまいか」と作曲の側を批判した。また与田凖一は「童謡覚書」の中で高野辰之の同趣旨のことばを引用して、同じ考えであることを表明している。
 これに近い考えは、作曲家たち自身にもないわけではなかった。河村光陽は「童謡作曲の仕方」の中で、「結果より見れば歌詞は、童謡として適切なものが随分生まれましたが、曲の方は、二三人の作曲家のものを除く外、遺憾乍ら殆ど唱歌の型を脱し得なかったのであります」と述べているし、中山晋平も同様の意見を述べている。
 しかし私は、これらの意見でさえも、楽天的であると思う。「唱歌の型を脱し」た人ですら、そのわらべ歌の理解があまりにも懐古・懐童趣味的で、子どもたちの生き生きとした創造力やイメージ豊かな発想法、たくましくバイタリティにとんだ表現などを忘れて、その結果の形だけを固定的にとらえているからである。そのため子どもたちの創造力や創造的表現をゆたかにするという、子どものための文化運動の根本的な問題は、高い成果をあげなかったと思うのである。その意味では文学の側の成果も、根本的には同じ限界をもっていたと考える。白秋のかかげた「日本童謡の伝統の開展」という課題は、現在のわれわれにもその実現を迫っているのである。その意味で童謡運動は、その批判として出発した文部省唱歌に対しても、根本的な反省を迫ることができなかった。その課題も、いぜんとして現在われわれの前に残されている。//
※童謡を歌曲のように歌う歌手、がなり立てて歌う幼児。前者は歌詞が聞き取れずなんのための子どもの歌か?と思ったし、後者はひたすらうるさい、「元気」の表現が違っていると思っていた。
pⅰ
//この本の元になった論稿は、当時音楽之友社から発行されていた月刊誌『音楽教育研究』の、1967年9月号から1969年10月号にかけて、20回にわたって連載していただいた「童謡運動の歴史的意義」である。//
※「子どもの歌=わらべうた」は顧みられることはなかった!ということになる。子どもの遊びや子どもの立場は、子どもの主体性からみて、重んじられてこなかった。

pⅱ
//というようなことから、私は童謡運動の研究を始めた。そしてその結果、北原白秋が高く掲げた童謡運動の積極的な意図にもかかわらず、音楽史の側からみれば、その意図はきわめて不十分にしか実現できなかったことがわかってきた。//

pⅲ
//これに対して、本当に子どもたちに歌い継ぐべき歌はわらべ歌である。わらべ歌は江戸期のわらべ歌が明治期にそのまま持ち込まれ、大正中頃から子どもの服装や遊び道具が変わるにつれて、歌の種類に変化も見られたが、しかし音楽的な性格はまったく変わらなかった。そして重要なことは、音楽教育では基本的に無視されてきたにもかかわらず、今でも子どもたちが生き生きと歌い継いでいるということである。//
※物質文化が侵入し子どもの環境に変化があったが、わらべ歌の伝承があった、ということ。
pⅲ
//「かごめ」「花いちもんめ」「せっせっせ」など、古くからの歌を子どもたちは誰もがごく自然に歌っているが、これこそが歌い継がれるべき日本の音楽の原点なのである。わらべ歌は遊びの歌なので、それぞれの地域のそれぞれの遊び仲間によって、歌詞もメロディも遊び方も変わっているし、また歌の種類にも変化がある。まりつき歌はほとんど滅びたと思われていたが、実は京都市の小学校で歌っているし、なわとび歌もまだまだ歌っているところがある。そのそれぞれの子どもたちが歌っているわらべ歌こそが大切で、音楽教育はそこから、それを土台に出発するべきだろう。//
※この文章には、「2004年6月10日」のタイムスタンプが記されている。

pⅴ 「まえがき」 タイムスタンプ:1967年9月
//今の音楽教育の基本的なあり方を、心から納得して教育にあたっている人は、私の知る限りではとても少ないように思う。ひょっとすると、指導的な立場にある方がたの中にも、疑問を感じておられる方がいらっしゃるのではなかろうか?//
pⅵ
//なぜこのような同じ状態が50年以上も続いてきたのか?//
※この衝撃的な文言で「まえがき」が綴られている。詳細を以下にみてみよう。
pⅴ
//疑問を感じておられる方がいらっしゃるのではなかろうか?
 もちろんその疑問や問題のだし方はじつにさまざまだ。けれども、今の教育は日本の子どもたちのもっている自然な音楽感覚のうちの、ごく一部の感覚だけにしかふれていないのではないか? 育てていないのではないか? というような不安と焦りは、多くの先生方が共通に体験しておられるところだろうと思う。
 じつはこうした不安と疑問は、もう文部省唱歌ができあがってゆく、その時から始まっていたのである。山住正巳の論文「文部省唱歌に対する師範学校の意見」(『音楽教育研究』音楽之友社、1967年6月号)によれば、当時現場の教師の側からは多くの批判的な意見が出されていた。また重要なのは、その文部省の音楽教科書編集委員で作詞を担当していた吉丸一昌が、もう明治45年から個人的に「新作唱歌」を出版することによって、そういう問題に一つの回答を与えようとしたことである。また大正7年の「赤い鳥」創刊から本格的に始まった童謡運動は、そういう不満や問題が一つの運動にまで高まった形であった。
 このような動きはその前後にもさまざまな形で続いてきたのだが、音楽教育の方針はいつも部分的な改善にとどまってきた。教育全体を根本から再検討する破目に追い込んだ敗戦という事態さえも、音楽教育に対しては根本方針から再検討しなければならないほどの影響は与えなかった。
 このようにして明治末に確立した音楽教育の基本方針は、その後50年以上の間に一度も根本からは考え直されたことがなかったのである。だからもちろん不満や疑問の方は、いつもぶすぶすとくすぶり続けてきたわけである。
 なぜこのような同じ状態が50年以上も続いてきたのか? これはおそらく他の教育分野に比べても珍しいことだろうと思うが、今も実際に多くの問題をかかえている人びとにとっては大問題である。いろいろな面から、その原因を考えてみる必要がある。
 そんなわけで、ここでは過去の批判運動の中でももっとも大きい運動だった童謡運動を、おもに音楽の面から考えてみたいと思う。//
※「まえがき」全部の文章。
※明治初期の欧化政策は音楽教育を支配し、子どもの仕事歌である「わらべうた」を顧みることがなった。「子どもの遊び」に欠かすことのできない「こどもうた」が廃れたということは、伝承あそびの心を絶やしたということだ。このことを声高に訴える小島美子の存在を知り、驚かされる。

p4
//凡そ学校の教科書程自由を拘束されるものはない。唱歌にしても、文字文体よりはじめて、修身 歴史 地理 理科等の他のあらゆる学科と阻隔させてはならぬのであつて、まさに詩であるべき唱歌に、教訓とか知識とかの、第二第三の目的が含まれてゐるのである。自由と解放とを希ふ詩人が、どうしてこれを満足しよう。//
※巻末注://高野辰之「民謡・童謡論」春秋文庫八、1929年、春秋社、p171以下//

p4
//この高野と吉丸〔一昌〕は当時の若いもっとも先進的な作曲家たちに、ひじょうに重要な影響を与えた人たちであるが、この文部省唱歌の編集委員会の内部にあって、けっして満足していなかったのである。吉丸が「新作唱歌」を発行した動機もおそらくはこのようなところにあったに相違ない。
 文部省唱歌もこまかく検討してみると、「雪やこんこ」で始まる「雪」や「でんでん虫々」で始まる「かたつむり」のように、わらべ歌から発想を借りた歌詞や、「夏も近づく八十八夜」で始まる「茶摘」のように、民謡の茶摘み歌の歌詞をそっくりと入れたものなどもあって、歌詞の面では日本の子どもたちの自然な感覚に、できる限り近づこうと努力した人びともあったことを知ることができる。それらの曲はまさに高野辰之が述べているように、「わが童謡(小島注 後述するようにわらべ歌のこと)に近い作が収めてあつても、それに附けた曲は西洋式のもので、わが固有の童謡のふしは採用されてゐなかった」にもかかわらず、子どもたちに喜んで受け入れられた。そのことは、それらがお手合わせなどの遊びの歌として、現在のわらべ歌の中に入っていることからもわかる。これらの歌は他の多くの文部省唱歌と同じように現在作者不明のままになっているが、おそらくは高野か吉丸、または彼らと同じ志をもった人の作であろうと私は想像している。すくなくとも文部省唱歌の中にも、そのような積極的な方向への動きがあったことをはっきり認めておかねばならない。
 ところで「新作唱歌」のこのような作詞のすぐれたあり方に対して、作曲のほうはどうだったあろうか? 残念ながら音楽的にはやはり「唱歌」であった。//

p10
//このようにしてみると、小松耕輔の場合には唱歌という意識があきらかに彼の音楽的発想を束縛していることがわかる。そして童謡を作る時にも、今あげたような発想による少数の作品以外は、同じような束縛からやはり抜け出してはいないのである。//
p11
//だから、もし彼が歌曲におけるのと同じような自覚を子どもの歌の方にも一貫させるとすれば、唱歌や童謡の作品でも、伝統的なわらべ歌の要素を基本的な要素として考えねばならなかったはずである。ところが彼にはそういう自覚はなかったらしい。//
p11
//この立場は学校唱歌を本質的に批判しているのではなくて、むしろそれを肯定し、その中で少しでも子どもの生活感覚に近いものを作ろうという構えである。//
p12
//しかしそれにしても、芸術歌曲と子どもの歌に対する彼のこのような見解の差異は、いったい何から起こったのだろうか? 実は、これは彼一人の問題ではなく、童謡運動に参加した多くの作曲家たちにも程度の差こそあれ、共通にみられる重大な問題であり、さらに童謡運動全体の音楽史的な意義にもかかわる根本問題なので、ここではそれを提起するだけにとどめておき、話を先に進めたい。//
p13
//しかしその中でも先にあげた「とんび」や有名な「どんぐりコロコロ」などは、彼らしい流れるリズムと旋律性によって、ことばのイメージを生き生きと伝え、学校唱歌を脱している。
 伝統音階を用いた曲の中には、「鬼さんこちら」とか「里の夕ぐれ」(ともに奥野庄太郎作詩)のように、まったく民謡音階で拍子やリズムまでわらべ歌的性格をもった童謡もある。//
p14
//唱歌の作曲と申しましても、その作曲する態度は別段他の歌曲を作曲する時と変りのある訳のものではありません。殊に童謡の作曲とは殆ど異なる所がないのであります。ただ学校において教へるといふ意味あいから歌詞の選び方とか或ひは又音域、拍子、調子等教育的に見て幾分加減せらるる点のある位のものであります。//
※巻末注://梁田貞「唱歌の作曲」アルス音楽大講座四、作曲の実際、1936年、p157。//

p19
//童謡ということばは本来おとなの民謡に対する子どもの歌の意味で使われていたわけである。//

p21
//白秋は「明治の小学教育」がわらべ歌の伝統を無視して「風土習慣の全然異った泰西の歌調と児童の生活感情に対してあまりに無識な小学唱歌、或は軍歌の歌調を以てした」ことに憤りを感じて、「童謡復興」の運動を展開したのである。それが白秋の指導した童謡運動の真の目的であっ。//

p48
//山田耕筰の童謡の特徴は、その中に全五冊からなる歌曲集「ロシヤ人形の歌」が入っていることからもわかるように、全体として芸術的なレベルがひじょうに高く、子どもたちが歌う童謡としてよりも、大人が歌うあるいは声楽家がステージで歌う童謡風な歌曲という性格が強かったことである。この山田の傾向は童謡運動の末期に現われた基本的な二つの方向のうちの一つの傾向を、もっとも典型的に表しているという意味でひじょうに重要である。//

p220
//とにかくこのようにして、童謡運動によって生まれた童謡は、一つの方向としては子どもたちが自分たちのために歌う童謡から、おとなのための「芸術的童謡」へと逃げ出していってしまうのである。そこには詩人の側にも共通して流れる一種の懐童趣味が、大きな根本的な限界をつくっていたのではないだろうか。//


戯曲「夕鶴」:木下順二 わらべ唄と子どもの遊び

2023.9.30記す

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