道義的責任と道徳

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 保育は福祉の仕事である。福祉を政策等で実行するとき(法や条例等規則によるため)線引き・枠組みを避けて通れない。業務は「枠」の中で執行することになる。しかし、それがイコール「福祉」ではない。
 福祉に携わるとき、「個人」としては「規範枠・非規範」の両方に立ち位置をおくようにと要望している。つまり、悩みながら・苦悶しながら仕事をすることになる。それが「福祉」を選ぶということなのだ。──保育士養成校の講義で話していることだ。渡辺洋三(法学者)『法というものの考え方』(岩波新書 1959年)では、道徳は法に勝ると主張している。この学びが福祉の捉え方に通じている。
 道義的責任が意味することは「道徳」と同じということにしておこう。ある法の執行者Aは道義的責任を問われ、道義の意味することに応えられず法の定めを自身の判断とすると意志表明した。
 養成校の講義では「福祉」の意味から問うている。「福」も「祉」も「しあわせ」ということである。福祉は「しあわせ」の追究を求めているということだ。だから、職業として(所得を得るために)福祉に携わることになるが、二足のうち片方で働き、もう片方は「非規範」に置いたままであってほしいと希望を伝えている。
 道義的責任を失った法の執行者(為政者)の存在はおそろしい。今後のなりゆきはともあれ、「人間を問う」課題においては、歴史的事件(先例)とされ検証され続けられるであろう。

 こんなことを思い出した。──ある中学校の校長がこんなエピソードを話した。先生Aが悩んでいた。修学旅行に行くお金のない生徒Bのことで。
 「で、君は、Bを旅行に連れていきたいのかどうか?」と問うた。「連れていきたい」と応えた。「じゃあ、そうしてやれよ!」と校長は言った。
 校長が若かったとき、生徒Cが家でなく工場のようなところで寝泊まりしていた。妻と相談して自宅にひきとったという。のちに、教育委員会の関係者にばれて叱られたという。

2024.9.15記す

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