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 「名」は「夕」と「口」から成る。ある辞書には〈夕方の暗やみで、人に自分の名をなのることにより、「な」の意を表す〉とある。そしてこの説明は多くの子ども向け学習辞書にもある。しかし、白川静の発見と研究によって、まったく違う説明がされている。
 まず「口」は「(顔の一部)くち」ではない。「器(うつわ)」の象形文字で、上部にくぼみがあったが、くぼみがなくなり四角い「口」になってしまった。「くち」ではなく「さい」の読みがあてられている。「夕」は「肉」の意味。うつわ(さい)に肉をのせた形が「名」だ。
 古代中国では、子は〈神からの授かり〉だった。生をうけてときがたち、名をつけるとき、親は神に感謝し、つけた名とともに肉をささげた、ということらしい。つまり、名づけることは神聖だった。
 1歳を待たずして名を呼ばれると振り向く。声かけのなかに自分の名があり、自分と同一になる。そして、フルネームで呼ぶと「はい!」と可愛い手があがる。わたし・ぼくという一人称はつかえず、自分の名がそのまま一人称になる。これは小学校に入学しても続くことがある。
 「これはだれのかな?」と呼びかけるようにして問うと、所有者自身が「○○のん」と名をそのまま言って応える。「そうなの、わたしのね」「よかったねえ、ぼくのね」と声かけをそえることで、すぐにつかえなくても、わたし・ぼくを習得できるようになる。
 遊ぶことで、「おともだち」「みんな」など人間関係を表す言葉が身につく。名を呼んだり、集団を表す言葉を覚えたりして、「ひと」としてのかかわりを覚え、その中の自分を自覚するようになる。自分に名があるように、ほかの生きものや物に名があることも容易に覚える、多少の間違いはしばしばだが。

(参考)
漢字(白川静)で考える子育て

2019.9.2記す

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