「擬育」この連載をこの先、どうまとめようか?── 擬育52

 このほど(今年1月)『いのちに出会う保育』を書き上げた。
 2018年7月に保育現場を突然に離れた。そのときにかかわっていた子どもたち(の保護者たち)との約束をどう果たせばよいのか、悩んだ(というより、慌てふためいていた)。「保育」から離れ、家庭での子育てという視点で考え直してみようと、一昨年(2019年)1月から連載を始めた。
 離れたつもりの「保育」について、『いのちに出会う保育』として到達した。すると対を為していた擬育の「まとめ」について、考えられるようになった。とはいえ、この先、どうまとめようか?

子どもの未来

 連載で、「子どもの可能性」については何度も言ったきた。
 天才について、たとえば、りんごの落下にヒントを得てニュートンは万有引力の法則を発見したと伝えられている。そんな単純ではなく、あるいは「偉人」にするための伝説と捉えたほうがよいと私は思う。
 脱線するが、生存している人物に対して「レジェンド」(伝説)という言葉が安易につかわれていることに違和感をもつ。レジェンドでない人、エピソードがあっても・なくても、いわゆる平凡な人物の可能性を否定できない。
 保育の現場で、3歳、4歳、5歳の子どもに強い期待を抱くことがある。(えっ! どうしてあの子は、あんなに友達にやさしくできるのだろう)と目撃し、感動する。幼い子の目線に思慮を感じることが多くある。それが、やがて学齢児となり、才能が隠されてしまう(消えたわけでない) 子どもの〈可能性〉を思うとき、けっして矮小化してはいけない(障碍があるとされる場合でも)。子どもの未来を期待できるものにしたい。

愛と巣立ち

 子どもの”ために”絵本を読んでいて、絵本が好きになった親は多い。保育参加で私の野外活動と一緒になり、子どもの遊びについてその見方が変わった親も多い。両者に共通する動機は、我が子の”ために”だ。
 親の子育ては愛そのものだ。「愛」という言葉に抽象化してしまうと、子育ての実際が見えなくなることもあるが、ベビーシュマによってオキシトシンホルモンが放出されることを理解すれば、子育てに伴う愛は、生理的ともいえる。ただし、それだけで行動の意欲が出てくるというものでもあるまい。夫婦の間で価値観が同じとは限らない。むしろ価値観が違うことで、子どもに求めることが異なり、ケンカにもなる。生理的な愛が(両親ではなくても)、確かな愛として行動が伴い継続されるには、絵本(文化活動)や野外活動を、おとなである親が楽しいと感じることは極めて重要だ。そのとき、”愛”で象徴されて違和感がない。
 そこで俗によく言われることだが、親の子離れというやっかいな課題に遭遇する。いつか子どもは巣立つ。独立する。そのために物心両面で投資しているのだが、そう簡単に割り切れない。愛情をかければかけるほどに、その別れはつらい。

いのちのドラマ

 主にNHKでだが、動植物あるいは生きものに限らず、地球の歴史をしのばせる映像に魅せられる。探究を続ける研究者の存在を知ったり、いったいどれほどの予算がかけられているのだろうかと感心する。
 そのように思い観ていたとき、ふと、人間のあかちゃんが生き抜くことは映像で見せられるドラマに匹敵するのではないかと思った。
 「擬態」が動物の知恵なら、人間のあかちゃん育ては「擬育」だ、と思った。共通しているのは〈生きてゆくことの強さ〉だ。おなかにいるとき、生まれて立ち上がるまでの1年、もっと自画自賛されてよいと強く思う。それが、学齢までに達すると”平凡”になってしまう。子どもが秘めている可能性に貪欲になってよい。
 擬育と造語したことから、この点でフォローしておきたい。抜きん出て成長して欲しいというのではない。擬育は、生き抜く知恵だ。だから、平凡であってよいのだが、平凡か非凡かは他者が形容または評価するのであって、大切なことは、本人自身の意思で、あるいはおとなの私たちに見守られて、いのちのドラマを演じて欲しい。

擬育 いのちに出会うドラマ

 さて、擬育の副題を変更し《擬育 いのちに出会うドラマ》として、これまでに書いたものを見直し、紙版作成を前提にして構成を検討したい。保育士向けにまとめた《いのちに出会う保育》は0歳児から5歳児を念頭に置いている。乳幼児については、間主観性期を経て〈他者/自己〉に辿りつく。他者/自己を発見してからは、《擬育 いのちに出会うドラマ》にバトンを渡し、育てられる受け身ではなく主体性を認め、自己の視点に立って織りなすドラマに見立てよう。小学5年生以上ともなれば、理解できるだろうと考え、そうしたテーマについても取り上げたい。