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〈目的〉と〈目標〉どう違う?
辞書をひいても今一つわからない。だけど以下、私なりに区別してみよう。
〈目的〉と〈目標〉は、同じではない。
大学に進学したら、では何を学ぼうか。「進学」の前者が目的で、目的が定まれば目標をもつようになる。もっとも、目標が先にあって進学先や進む方向を考えるということはある。後輩にはこのことを私は勧めている。「何がしたいか?が先だ」と。目標は、ときに応じてしばしば変わるが、目的は目標ほどには変わらない。
5歳児に野外活動で、○○に行くよと目的地を告げれば、だったらカエルやバッタをつかまえようと目標ができる。幼児は、自ら〈目的〉を決められないが、目的が告げられたら〈目標〉はスイッチを押したように点灯する。4,5歳ともなれば、バッタをつかまえたいから「どこかへ行こう!」と誘ってくることもしばしばある。目標を達成するには、目的が必要ということを学ぶ緒についているからだ。
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修学旅行を例にして具体的に考えよう。《6年生になったら修学旅行に行ける》これは、学校が設定したものではあるけれど、5年生にもなると、これを自己の《目的》に据えるようになる。目的に対して自己を律するようになる。自律しようとする心がさまざまな〈目標〉になる。ところが、コロナ禍を理由に、修学旅行が中止されると子どもは〈目的〉を失うことになる。目的が失われると、目標も同時に消え去る。ここで言えることは、学校行事は、学校だけに執行権があるのではないというだ。自律する心を失ったり、迷いを生じさせることが、子どもの成長に重大な障壁となるだろうことは容易に推測できる。
では、コロナ禍で入学式の時期を失った子どもはどうか。1年生になろうとする6歳頃は、目的と目標を分けて意識できない。保育園や幼稚園を卒園したら小学校に行くという目的はおとなが設定したものだ。その目的を信頼して子どもは「1年生になったら……」と希望(目標)を抱く。その入学式が執り行われることなく学校が始まった。自律する心が芽ばえている5,6年生と異なるが、1年生の場合、バッタをつかまえたかったが、その目的地に行けなかった、ということになる。1年生の、夢・希望・目標を大切に育てることが、5,6年生の自律する心に結びつく。
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およそ2歳半までは目的も目標も存在しない。あかちゃんが、手を差し出しているママをめざして這い這いして進む姿は〈目標〉とは違うのだろう。2歳半を過ぎる頃から、子どもの要求が示される。すべり台に登りたい、ブランコに乗りたいなどと要求する。公園に行くという〈目的〉が習慣化されるからだ。やがて、ブランコに乗るために公園へ行こうと誘うようになる。5歳児にもなれば目標を達成するには目的が必要とわかるようになる。小学3,4年生頃は、〈目的〉と〈目標〉が区別されるようになり、5年生になると〈目的〉と〈目標〉がより明確に区別される。〈おとな〉になる──ということでもある。
養老孟司『唯脳論』文庫 p228
//動物の行動は、程度の差こそあれ、合目的的である。//
※この「目的」は、上述の「目的」ではなく「目標」と同意ではないかと思うのだが……。
※養老孟司は //脳の中にたしかに存在する目的論思考を//……p229 と、している。
2023.4.16Rewrite
2020.10.1記す