言葉に、こだわりながらも

言葉へのこだわりは、自身の課題でもある。
だから、派生し、多岐におよぶ。

勇は優から ──「勇気」考 ──

もつことのできるのは「やさしい気持ち」

 「勇気をもつ・もちなさい」のフレーズを耳にするたび、「勇気」なんて「もてない」と密かに反撥する私がいる。勇気って、なんだろう。高いところから飛び降りることか? それなら、度胸で言い換えられるし、度胸のほうが適していると思う。

 「どきどきする」と3歳にもうすぐなる男の子がつぶやいた。すべり台の高みにあがったとき、滑り降りたい気持ちのとき、どきどきしていたのだった。山登りをしていて5歳の男の子も「どきどきする」と言った。幼児では、心臓がバクバクするように、どきどきしているのだろうか。3歳で、そういう気持ちになるのだ。愛おしい。
 そんな、3歳や5歳の子に、「勇気をもちなさい・勇気を出して……」と言うおとながいたとしたら、それは違うだろうと言いたい。子どもの公園に必須とされた遊具に、ぶらんこ・すべり台・砂場があった。そして、すべり台は「どきどきする」遊具の役目を担った。
 スポーツ競技をみて「勇気をもらった」というのもある。「地球にやさしい」と同じくらい、私は受けいれにくい。須賀敦子の著書『遠い朝の本たち』にも驚いた。「たち」という複数は人にだけつかわれると思うのに……。作家がつかえば、ゆるされるのだろうかと思って、私もつかってみたことはあるけれど、違和感はやはりある。少し脱線。
 持ち物のように、まるで常備品のように「勇気」は備えて、おく・おけるものだろうか。否! 勇気とは、空気のようなもの、正体不明なのだ、と私は思っている。そんなものをどうして備えておけるのだろう。
 「やさしい気持ちでいよう」と誓えば、備えられる。「やさしい気持ち」も空気のようなもので正体不明と言えるかもしれないが、〈やさしくあろう〉と、向き合ったり心を整えることはできる。
 あかちゃんを抱いたときはかわいいあまり、やさしい気持ちになろうと思わなくても、すでに、やさしくなっている。あかちゃん・我が子・幼い子と、向き合っているとき、もしそこで何か危機的なことがおきたら、からだが自然と動き子らを守ろうとするのではないか。
 常日頃、やさしい気持ちを持ち続けていたら、醗酵して食品がおいしくなるように、あるとき必要となれば、「やさしさ」が醗酵して「勇気」になって表出されるのではないか。だから、「勇気を持つ」ということはできないけれど、「やさしい気持ちを持ち続けよう」とする心懸けが、じつは「勇気をもつ」と同意になるのだ、と私は考えている。

斎藤隆介 / 滝平二郎『モチモチの木』より

 岩崎書店の絵本(p30 最終場面)には次のとおりある。
 ── にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっと やるもんだ。 ──と。

 絵本の巻末「解説」には、
 ── 人間のすばらしい行動の底には、やさしさこそが金の発動機(モーター)になっていることを、私(斉藤隆介)と同じに信じて疑わぬ人なのだ。 ──

「勇は優から」のフレーズは、道場のコンセプトを採用させていただきました。

2021.1.21記す