||||| 下條信輔『サブリミナル・マインド』読書メモ |||

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下條信輔
『サブリミナル・マインド』
──潜在的人間観のゆくえ
+ 中公新書
+ 中央公論新社 1996年

p13
//図形を数ミリ秒以下で繰り返し瞬間呈示しても、「形が見えた」という意味経験は生じないことが知られています。見える限界=識閾(しきいき)よりも下という意味で「サブリミナル(閾下)」といいますが、//

p15
//動物の進化の過程を見ても人の発達の過程を見ても、暗黙知がつねに先立ち、明証的な知の基礎となっている//

p20
//ベムという社会心理学者による自己知覚理論という考え方の基本//……
p30
//そのわけをベムは明快に述べています。自己の内的状態を認識し、それを言語で表現する過程は、幼児期からの経験の中で、むしろ他人からの教示や訓練によって習得されていくものです。つまり自分についてどのように認知し、どのような態度をとるかということは、はじめは他人によって、外側から形成されるものなのです。//……//本人にもアクセスできない内的過程に、思いのほか強く支配されている、とベムはいっているのです。//
p31
//極言すれば、自分はもうひとりの他人であるかもしれないのです。//
p31
//「自己の態度や感情などの内的状態を直接知る手がかりは、案外乏しい」〔ベムの主張〕//

p45
//身体の生理的変化が先で、次にこれが原因で情動が生じる//
p46
//「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」//

p80
//そこでこうした認知的不協和のエピソードや分割脳の事例は、(ガザニガによれば)人が統合された単一の心理学的実体であるという信念は幻想にすぎないことを示しているといえます。//
p80
//人の心とは、完全には統合されていない多元的なシステムなのです。つまり、心とはひとつの心理学的実体ではなくて、いくつかのサブシステムからなる社会学的な実体なのです。
 実際、ガザニガの代表的著書には『社会的な脳──心のネットワークの発見』というタイトルがついています(1985年)。サブシステムはそれぞれに行為への独自の衝動と行動能力とを持っており、これらのサブシステムは互いに相手を熟知しているとは限らない、と考えておくべきでしょう。//
※1987年発行、青土社は『社会的脳』となっている(「的な」ではなく)
原題 The Social Brain

p115
//私の私としての連続性は何によって保証されているのか? この人格の「同一性」の問題は、煎じつめると記憶の問題に突き当たります。//

p132
//ハンチントン病(舞踏病ともいわれる)では、大脳基底核といわれる部位が冒されており、HMらの場合とはまったく逆に宣言的記憶は大丈夫ですが、手続的記憶が損なわれるのです。//

p133
//宣言的記憶は系統発生的には比較的新しく、また個体発生的に見ても手続的記憶が先に発達するだろうといわれています。その証拠に生後1、2年目までのことは、誰も覚えていないでしょう。不思議だと思いませんか。これを乳児性健忘とか乳幼児期健忘などといいます。自覚できない潜在的記憶だけが先にあり、自覚でき報告できる顕在記憶が未熟ですから、後で意識的には思い出せないのだと考えられているのです。けれども思い出せない乳児期の記憶が後の人格形成に決定的な影響を与え得ることは、フロイトらの精神分析学派だけではなく、多くの論者によって指摘されています。//

p137
//脳損傷の症例をはじめとする潜在記憶の知見は、潜在的な認知過程の証拠としてもっとも歴然としたものですし、動物や乳児にも共通したヒトの知性の基盤の在処を私たちに教えてくれます。//

p162
//閾下知覚とか潜在知覚というときに、閾下とか潜在ということばの意味を「本人が見えたという自覚を持たない」という常識的な意味にとってよいのかどうか。もしよいなら(私もそう思いますが)、閾下知覚・潜在知覚の証拠はあるのです。//

p166
//ブロードベントによると、時々刻々私たちの眼や耳から入ってくる情報は無限に近く、そのすべてを処理しようとしていたのではとても間に合いません。緊急を要する反応もできません。そこで、より重要そうな情報だけをさらなる処理のために残し、残りを捨てるフィルターの役割をするのが人間の注意だというわけです。//

p167
//「見えた」あるいは「あった」という反応は、知覚の測定可能な出力が複数あるうちの、特別なひとつであるにすぎないというわけです。//

p167
//意識経験のシステムには容量の制約があります。それゆえ、意識へのエントリーの基準や、最終的な知覚の性質を決める多くの要因は、それ自身は意識を伴うことなしに影響力を行使するものと考えられるのです(ディクソン、1981年)。//

p169
//「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」。これが、私の支持する命題です。//

p173
//そうした出力は意識レベルで「気づき」自覚できるものであったにしても、そこに至るまでの過程は自覚できない場合が多い//

p177
//人間は、自分が無知で無力な領域ほど神秘的な気分になり、超常的な現象を信じたくなります。この原則はここでも当てはまります。そして無知で無力な領域の最たるものは、自分自身の精神なのです。//

p192
//特定の対象をただ繰り返し経験するだけで、その対象に対する好感度、愛着、選好性(=その対象を選ぶ可能性)などが増大する。これがこの効果の眼目です。特に「ただ繰り返し経験するだけ」というところがミソで、その対象について、とりたてて知識を与えられたり、何らかの関わりを持ったりする必要はないのです。//

p214
//実際、昨今のテレビで流されるコマーシャルや、雑誌などの広告を見ていますと、意図的にサブリミナルなメッセージを仕掛けたと思われるものが目につきます。//

p215
//キイという社会学者は『メディア・セックス』という本を書き、//……
p218
//キイは実験心理学者ではないので、実証的根拠ははじめから薄弱です。また告発の書ということで多少気負いすぎ、センセーショナルリズムに走ったきらいもあります。それにもかかわらず私がここに取り上げたのは、その全体の方向性は正しいと思うし、彼の表明した危機感に、私もある程度共鳴するからです。//

p222
//それにつけても思い出される、印象的なSF短編があります。バラードの名作「識閾下の人間像」です。バラードは、1963年発表のこの作品ではやくも、今日の危機を鋭く予測し、警告を発しているかのようです。//

The Subliminal Man に対して「識閾下の人間像」と訳しているが、その後「無意識の人間」──柳下毅一郎/訳(『J・G・バラード 短編全集 2』東京創元社に所収)
 本作品を読めば了解できるが、1963年の時点で描いた近未来社会とは現代(2025年)ではないか! 情報に操作されている現代人をまさに描いている。

p230
//とっさの反応はできますが、あらためて問われたり、自問すると混乱してしまう。//

p235
//図を見てください。〔上図〕感覚系と運動系をつなぐ神経経路はひとつではなく、いくつかの異なるレベルがあります。そのうちの低次のものは自覚できず、高次のものだけが自覚できる。このようなモデルを「はしご段モデル」と呼びましょう。//

p236
//このような複数の経路が存在したほうがよい生物学的理由が、たぶんあるのです。//

p236
//たとえば、有名な知覚心理学者J・J・ギブソンの名言を思い起こせばよいでしょう。彼は、視知覚のはたらきを物体の認識だけと捉えがちな傾向を批判して、「自己受容感覚」としての視覚のはたらきを強調しました。つまり、環境と自己との関係を捉える感覚としての視覚です。彼が挙げている有名な例は鳥の場合で、彼らは視覚情報から自分が地面に対してどのような高度、どのような速度でどのような方向に飛んでいるのかを時々刻々と知覚し、ただちに適切な羽の動きで飛行を続けるといいます。//
p236
//私たち人間の場合でも、たとえば自分の乗っている電車が駅に停まっているときに、向かい側の電車が走り出すと、自分の乗っている電車が逆の方向に走り出したような錯覚にとらわれることがあります。「視覚誘導性自己運動(ベクション)」といいますが、これなどは環境と自己の関係を捉える自己受容感覚としての視知覚の、わかりやすい例といえるでしょう。//

p237
//姿勢・運動制御の経路は昆虫や鳥や哺乳類でも比較的下等な種でむしろ優勢であり、これに対して物体認知の経路は、サルやヒトなど高等な動物ではじめて優勢となる神経メカニズムなのです。このことを前提に考えれば、姿勢・運動制御の経路がおおむね無自覚的であるいは潜在的であり、物体認知の経路がおおむね自覚的あるいは顕在的なのは、むしろ当然とも考えられるわけです。//

p270
//個人の独立性と自由意志を尊重し、それと同時に他人の自由を保証するための「責任」を強調する価値体系に、私たちはほとんど無上の優先権を与え、無上の信頼を置いているように思われます。このような無制限の信頼の根拠は、しかしどこにあるのでしょうか。ことあらためてこのように問い直してみると、個人の独立・自由・責任に基づく価値体系の基礎に、私たちはある人間観を(漠然とにせよ)見いだすことができます。より具体的にいって、それはどのような人間観であるといえるのでしょうか。この人間観には十分な根拠があるといえるのでしょうか。//

p295
//自分とのコミュニケーションは、ガザニガのいう通り、意外に「外的」で「間接的」なものです。他人とのコミュニケーションとは、ともに外的である点で、本質的に同じです。その結果の経験のされ方が異なるだけなのです。現代哲学者が独我論から自らを救おうとして唱えた「間主観性」「共同主観性」「現象一元論」などに通じる新しい吹き抜け穴がここにあるというのが、私の見解なのです。//

2025.11.30記す

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