ことの起こり ── メモ書き「いのちに出会う保育」

 あなたは、なぜ保育士になろうと思ったか?
 ここから問うのが「ことの起こり」にふさわしいだろう。大阪府高槻市のある保育園でこの問いをしたことがある。新人から古株までその場に20人ほどいた。「子どもが好きだから」が多くて当然のように思われるが「嫌いだったけれど保育士になってしまった」という声もあった。実習先の先生に誘われてなど、異口同音あったのだが、10年ほど前で楽しく懇談したこと以外よく憶えていない。笑いもあれば、涙をふく人もいた。けっこう盛り上がり、ワンパターンでなく、ロールプレイングゲームのようになった。古株の先生は、たまにはこういうのもいいなあとつぶやいていた。

 さて、この冊子(2021年春、冊子にする予定)でのテーマは「いのちを子どもに(気づかせたい)」ということだ。保育という仕事は、乳幼児=いのちそのものを預かる仕事だ。卒園式のとき、あかちゃんから5歳児まで見守ってきたことが思い出され、まさにいのちの成長を目の当たりにすることになる。ベテランであれば、こそ、一人として同じ子どもはいない。みんな違う。と、思うことだろう。類型的に感じることは確かに、ある。類型やタイプはあっても、子どもの育ち、環境はみんな違う。

 私が「自然」というものにかかわり始めたとき、そのときの導きは「生きている証拠を見つけよう」だった。証拠とするからには五感が必要だった。同じ景色、同じフィールドであっても、繰り返しフィールドに足を運び、生きもの(動物と限らない、植物も、生きとし生けるものすべて)と向き合うことで、表現できる・できないを問わず、そこで得たことは計り知れない。

 幼児に「いのち」をどう気づかせるか? 自分のいのち、他者(友達・親・きょうだい)のいのち、野外活動で出会うカエルやザリガニ、バッタ、ダンゴムシ、あるいは摘み取った花、紅葉した落ち葉や木の実などが「いのち」の対象だろうが、そもそも「いのち」に気づかせるとは、どういうことだろうか?
 幼児に限って「いのち」を気づかせる方法は、〈ともだち〉に対する〈おもいやり〉がキーワードでないかと私は思う。〈おもいやり〉が生まれる年齢は「心の理論」では4歳を待たねばならない。4歳未満では「いのち」を気づかせられないけれど、間主観性が成立する環境に留意することだろうと思う。
 ところで、ひとつ懸念がある。
 「レジリエンス」という言葉は、極めて過酷な例えば震災やトラウマから日本語として「立ち直る」のように使われる。それを中身にする子育ての本が出ている。立ち直りにくい子どもが増えているという。自己は、他者に習っていると思われることが多くあり、つまり「いのち」への気づきは、他者に対する〈おもいやり〉から培われることを念頭におけば、立ち直りにくいということは〈おもいやる〉頻度がいちじるしく欠けているという世相を背負っているのかもしれない。それは、私たちおとな乃至現代社会の課題ではないかと思う。

(参考)涙の跡とレジリエンス〈立ち直る力〉

2020.12.31記す