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いつだったか? 阪急京都線に乗り、いよいよ京都という手前、田園風景の駅で降りた。ジャンボと華房良輔さん、姫路工業大学の岸田孝藏先生(地下水が専門)とわたしの4人組。わたしは20代後半だった。国産ではないが、養殖ミミズ(アメリカ産)を見に行った。
ミミズ養殖場では土から白い湯気が上がっていた。三本の爪がある鍬(みつぐわ)を入れ持ちあげると、スパゲッティを想像してしまうミミズがどっさり姿を現した。やにわにジャンボがその「土」を自身の口に含んだ。「土やわ!」とつぶやいた。わたしたちがふつうに「土」というとき、土を口に含めばジャリと砂をかむ。ミミズがつくった土(ミミズの排泄物)は砂を含まず有機質だけなので、それを自身の口で確かめたというわけ。そのすばやい行動を間近に見て、わたしはものすごいことを学んだと思った。(当時、「ミミズの土」がホームセンターで売られていたが、しばらくしてこの商品は消えていた)
ジャンボは足を引きずっていた。前日、釘を踏み抜いたという。背が高いので、だからジャンボというあだ名だったのだろう。本名を知らなかった。ジャンボは、華房良輔さん率いる農場「ふえろう村塾」塾生の一人だった。
1977年10月頃、新聞記事で知ったふえろう村を訪ねた。放送作家だった華房さんは銀座で飲み明かす(華房さんがいうところの)虚業を捨て、神戸市北区櫨谷(はせたに)で農業のまねを始めたばかりだった。野坂昭如や中山千夏らと親交が深かった華房さんにぜいたくな面影はまったくなく、笑顔をたやさない気さくな人で、シロート百姓の風体だった。
幾度となくふえろう村(「村塾」ではなく塾を省くことがふつうだった)を訪ねた。放し飼いのニワトリがそこかしこに居た。鶏卵をわるたびに色が違うのはニンジンを多くあたえるとオレンジ色になるなど、エサによることを経験したのもふえろう村だった。
櫨谷では○○から執拗な妨害を受け、1982年小野市に移ったが1986年12月火災にあい、「ふえろう村塾」は終わった。
その後、赤目四十八滝(三重県)に近いところで相変わらずの農村生活だったが病に倒れ、ご自宅の寝屋川で療養(2003年)、2009年11月8日死去。
ふえろう村は、わたしにとっては「生き方」を学ぶ場だった。農業は見直されつつあるようだが、当時のふえろう村は、生き方を模索する若者の集まり(ルンペンふうの集まりでもあった)で華房さんは”塾生”からボスと呼ばれていた。尊敬されたり、親しまれる関係でもなかった。昼の食事を共にするときは、いったい何が出てくるか、度胸試しでもあった。
華房良輔『都会人でも有機農業で食えた ふえろう村かく闘えり』(アニマ2001 1994年)《野坂昭如、評:これはひたむきに夢を追い求めたエコロジストの些か滑稽にして甚だ悲しい記録である。》
文人でもあった。文明批評家でもあった。華房さんの生き方そのものが、「正しいとは何か」であった。
2026.2.1記す

