||||| 石巻発・友情人形ステラちゃん |||

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 「青い目の人形」と言い慣わされている「友情人形」の物語です。ステラちゃんの目はbrownです。

 筆者は、2014年3月3日、ひろぶち保育所(宮城県石巻市広渕)でステラちゃんに初めてお目にかかりました。

89年前のこの日、ひなまつりでお祝いしてもらった。2016.3.3 撮影

 ステラちゃんの向かって右、大きなアメリカ人形は後年に贈られてきた人形です。ひな壇の真ん中でおすわり。かわいいですね。きものを着ています。

小学3年生 30人が生活科の課外授業でご対面。2015.6.19 撮影

『青い目の人形物語 Ⅰ』p53~56より要約

  • 「世界子ども友好委員会」がまとめた「日本に送る人形」の条件
    • 人形の大きさは、32cmから40cm
    • 魅力的で、典型的なアメリカの女の子の姿
    • 人形は新品であること
    • 価格は3ドルまで
      • 「なんと高価なのだろう。銀行でのおじいちゃんの時給が、25セントだと聞いたことがある」(54ページ)
    • 顔も手足もこわれにくい材質でできていること
    • 髪の毛は手縫いであること
    • 人形の両目は開いたり閉じたりして、「ママ」と言うこと
    • 手紙を持たせること
    • 日本までの列車と蒸気船の切符、パスポート、ビザを持たせること
    • 衣服はさっぱりしたもので、ていねいに作られていること
    • 着せかえ用のドレスもつけることが望ましい

ことの はじまり

 『青い目の人形物語 Ⅰ』「作者あとがき」より、以下 引用します。p341-342

 はじめに呼びかけたのは、日本の学校で20数年もの長いあいだ、英語やキリスト教をおしえていたシドニー・ギューリック博士です。
 1924年、アメリカ議会は、新たに日本人移民がアメリカ合衆国にやってくるのを禁止する新移民法を可決しました。移民のせいで、アメリカ人が仕事を失うと考えたからです──そしてこの法律は、1954年まで適用されることになります。
 ギューリック博士は、こうしてアメリカと日本の緊張関係から、戦争が起きてはならないと考え、アメリカじゅうの子どもたちに、この「友情の人形」交換の事業に参加するよう、熱心にすすめました。

  • 『青い目の人形にはじまる人形交流』(以下『人形交流』と略す)
    • 社団法人横浜国際観光協会 横浜人形の家 /編集
    • 1991年 発行

友情人形 1万2739体

 『人形交流』によると、日本に送り出されてきた人形の数は、オハイオ州 2283、ペンシルバニア州 1935、ニューヨーク州 1436 と数多く、1体から数体と少ない州もあり、一方送り出しがみられない州は3州(?)にとどまり、全米合計 1万2739体にのぼる。サンフランシス港から太平洋を洋行できる大型の蒸気船を5叟も要したという。
 到着した日本では、東京 568、大阪 429、兵庫 373、宮城 221 ほか全国に送られた。

ステラちゃんの渡航切符
ステラちゃんのパスポートとビザ
パスポートを開いてみると……
着がえ
帽子、靴下、靴

さいとうとしこ/作『友情人形ものがたり』2003年

小学生向け、わかりやすい「友情人形」のお話しが読めます。

ミス宮城

 日本の子どもたちもすこしずつお金を出しあって、アメリカに感謝のしるしの「答礼人形」を贈ることになり、全国最高峰の人形作家や人形店により、58体のみごとな日本人形が作られました。人形たちは、絹などのすばらしい着物をまとっただけでなく、たんすや机、鏡、ランプなどの小さなお道具や、もっと小さなお人形やおもちゃまでたずさえて海をわたり、1927年のクリスマスに、アメリカの子どもたちのもとへ届きました。──『青い目の人形物語 Ⅱ』p404

しかし、1941年12月8日、日米は戦争状態となった。

『青い目の人形物語 Ⅰ』「作者あとがき」より、以下 引用します。 p344

 1943年、日本政府は人形たちを「敵国の象徴」と発表し、こわすなり焼くなり海にすてるなりして、処分せよと命じました。しかも多くの場合、人形たちをかわいがってきた子どもたちの目の前で、そうせよと言うのです。

  • 『お帰りなさい『ミス宮城』──2003年里帰りの記──』(以下『里帰りの記』と略す)
    • みやぎ「青い目の人形」を調査する会 /2003年 発行

 『里帰りの記』p50-51 より、以下 引用する。

メリーちゃん

 上沼小(引用者註:宮城県中田町立上沼小学校:現在は登米市)の人形を守ったのは、当時上沼国民学校で用務員をしていた菅沼喜久也さんと分校主任の加藤八郎先生である。二人は、「人形までくべてしまえなんて。何とか隠す方法はないべか」と考えた。本校の校長先生からも「調べにくるので始末してくれ」と頼まれていた二人は暗くなるのを待って、職員室に隠すことにした。明かりのない真っ暗な夜の職員室。木の箱から人形を出した時、人形は目を閉じたまま「マンマー」と声を出した。二人にはその声は「焼かないで」と訴えているように聞こえた。二人で必死に戸棚を動かし、戸棚と壁との隙間にそっと隠した。
 後で佐沼の警察が「人形は焼いたのか」と調べに来て、鋭い目であちこち捜し回り、釜のふたまで開けて見ていた。菅沼さんは「巡査が帰るまでなんと長かったことか」と当時の事を話していた。また、「私にはめんこい人形を焼くことができなかった」と語っていた。
 現在メリーちゃんは、2000年4月にコルベットさんから贈られてきた「新・友情人形プディンちゃん」と一緒に校長室前の展示ケースに保管展示されている。

戦禍を免れた友情人形 313体

  • 『人形交流』に「青い目の人形友情交流会」提供資料による所在地リストあり(1991年6月現在)戦禍を免れたのは、東京 9、大阪 3、兵庫 7、宮城 4 ほか全国にわずか313体だった。

 1945年、第二次世界大戦は終わり、ふたつの国の関係も回復しました。そしてどちらの国でも、戦時中ひそかにまもられ、かくされていた人形たちが、各地でつぎつぎ発見されてきたのです。──『青い目の人形物語 Ⅱ』p405

2019.2.25記す

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