給料が安くても(諦めているのではなく安すぎることが不当だが……)仕事が続けられるのは子どもに責任を感じるからだが、義務感以上に信頼を寄せてくれている子どもが愛らしく成長の歓びがあるから──多くの保育士はそう応えるだろう。「保育の質」は、保育士自ら求めている。
❖いつも「子どものために」
いま保育界で最も現実的に取り組まれているのは「量」に対する国の施策であり、これに呼応した公と民のヒステリックなまでの追随である。保育所入所条件で、2015年3月までは「保育に欠ける」とされていたものが「保育を必要とする」と変化した。幼稚園の入園について2歳児を受けいれるにあたりそのサービス名称が「預かり保育」から「一時預かり事業」に変わった。同じ年齢の幼児が保護者就労の有無で幼稚園と保育所に分けられることは従前より問題とされ、これを統合させようと試みられた保育をかつては「幼保一元化」*1と言ったが、これもいつのまにか「幼保一体化」になった。保育界の当事者たちはいつの時代も乳幼児の発達保障は重大事であり、制度の枠組みを何度も修正してきた。その枕詞はいつも「子どものために」だ。
- *11969年4月、神戸市須磨区友が丘に北須磨保育センターが開園した。名称「保育センター」は創設者の守屋光雄が「”幼保”でもなく”保幼”でもない」とし「保育一元化」を主張していた。
❖保育現場で働く者の願い
「子どものために」というのは「質」のこと。つまり、「量も質も」ともに充実が求められているが、量の確保がなかなか追いつかず、質はかけ声ばかりで実現する気配がない。量は待機児童数で算出できるが、質は子ども一人一人の発達保障のことだ。追いつかない量に対して、設置基準をゆるめて定員の2割増しを行政自ら求めているくらいだから、質の向上は棚上げしてよろしい、と言っているのと同じだ。
0歳の子どもは1年経てば1歳になる。1歳の子どもは1年経てば2歳になる。2歳の子どもは1年経てば3歳になる。この「1年」のあいだに子どもがどれだけの発達をみせるかは、保育の現場で働く者は皆よく知っている。見学者からみれば、あどけない幼児のふるまいはかわいいだろうし、ときにはたくましく見えるだろう。現場の保育者も同じことを感じてはいるが、一人一人の援助を行おうとしており、目標を持っていて、その実現のために体力も気力も使い果たしている。質を実現しようとしているのは、保育者(保育士)一人一人だということを私は言いたい。
❖危機感の共有と、かけがえのない保育士の存在
ここからは、質の向上をどのように求めればよいかを述べたいので、「保育者」を「保育士」に言葉を切り換えることにする。保育士の質を上げるには、どうすればよいか。
とにかくこの議論は保育を社会的に実現するプロセスの当初からある命題であり、文献や教科書は図書室を埋めるくらいあるだろうし、講師・教員も同様、溢れている。にもかかわらず解決しない。保護者の養育力低下だけでなく、保育士の保育力もむしろ低下しているのではないか。飢えを知らず、欲しいモノは金を出せばなんでも手に入る”豊かさ”と引き換えに、こころやからだを育てる方法を見失ってしまった、と言ってよいだろう。保育関係者で同様の嘆きを幾人もから私は聞かされた。危機と言ってもよいだろうこの事態からどうすれば抜け出せるのか。
子ども一人一人がかけがえないように、保育士一人一人もかけがえない存在である、という認識を私は確認したい。幼児の感受性はおとなを凌ぐものがあり、保育士の人格尊重こそが重要であり、尊敬されるべき保育士に幼児は養育されている、という心強い信念あるいは愛を求めたい。
❖今行っている保育から出発しよう
保育に関する様々な学術書を読むと、感動をもって実践したいという衝動にかられる。すぐれた保育現場の実践を知ると保育の可能性に期待し、これもまた取り入れたいと思う。これは、間違いではない。──しかし、もしかしたら間違っているのかもしれない。
レストランで、自分が食べているものよりおいしそうなものを隣のテーブルで目にしても、今食べているモノも美味しいと思いたい。自分が今行っている保育から出発しよう。それが、子どもを裏切らない唯一の方法ではないか。
「今行っている保育から出発」するには、どうすればよいか。
- まず、「今行っている保育から出発」すると誓う
- 保育計画も大切だが、事後の点検がより重要
- チームの共通理解、認識を必要条件とする
- ここで、外部も含めた研修を入れる
❖まず、ディベートの実践を!
日本の教育は知識偏重で、議論・討論は苦手とされてきた。その知識偏重は高学歴社会のためであって、保育に、偏差値で差別されるような学歴や成績は不問である。保護者との対応、報告文書の作成等で、学歴と相関がないとは言い切れないのも確かである。しかし、議論・討論、カタカナ語でいうところのディベートを重視すれば、学歴に十分対抗できると私は考える。
5歳児クラスで子どもたちが突然議論を始める場面は日常茶飯だろう。これを単なる言い合いや喧嘩で処理せず、保育士がファシリテーターを務めてディベートに誘うことで、他人を思いやる気持ちが育まれ、思考する力が増す。語彙力も増す。上記の(1)(2)(3)はすべてディベートにより実現する。そういう素地があってこそ、保育に関する文献が読めるようになるし、先駆者の実践を自分たちで消化して取り込むことが可能になる。
2017.9.2記す