||||| 一所懸命か? 一生懸命か?|||

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中村明『日本語の「語感」練習帳』PHP研究所 2013年 p90

//「明日もまた一所懸命やろう」の「一所懸命」は、「命がけで打ち込む様子」を言い、現在慣用的に使われている「一生懸命」に転じたもとの語形だ。語源的には、武士が賜った一箇所の領地を命がけで守り、生活の糧とすることをさす。それが単にものごとを命がけでやる意味に変化し、封建制度の衰退とともに原義が忘れられて、それと発音の似た「一生」に置き換わり、「一生懸命」という表現の形で一般に広がったらしい。
 こういう事実を知って、これまで単なることばの乱れと思っていた「一所懸命」が、にわかに高貴に見えたという人もあるかもしれない。だが、そうなるとこれまでなんの引けめもなく使っていた「一生懸命」という語が代用品になり下がり、とたんに使いにくくなる。向学心に燃えた若者なら、ためらうことなく「一所懸命」に切り換えて使うだろうが、あとから知ったことばを得々と弁じたてるのは、生半可な知識をひけらかすようで、大人のふるまいではないような気もする。
 かといって、事実を知ってしまった以上、これまでどおりに「一生懸命」で通すのはためらわれる。そのほうが、世間からの疎外感を味わわなくても済む点では無難だが、「国語の先生のくせに、こんなことばも知らないのか」と、軽蔑されるかもしれないなどと、それまでは考えもしなかったよけいなことが頭をよぎる。
 仕方なく、「ほんとうはイッショケンメイと言うのだそうですが……」と、いちいち注釈をつけたり、意味ありげに両方の言い方で繰り返してみたり、やむなく「懸命」だけで済ませたり、あるいはほかのことばに言い換えたりする。ともかく、これまでどおりに無心で使えなくなっているのだ。なまじ知ってしまったために、変な神経をつかってしまう。そんなとき、「知らないうちが、花なのよ」という古い文句がふと浮かんで苦笑したりする。//

2021.2.21記す

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