||||| 他人の子を叱る(よその子を守る)|||

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 当初、今回のタイトルを「よその子を守る」と仮にしておいた。業務上(生計として)保育や教育という立場ではなく、謂わば我が身と関係ない「よその子」を守る社会になればと思っている。後述するが、登校時安全確保対策のボランティア活動は「よその子」を守ることの周辺だろう。しかし、「制度ではなく自発」の「育ちあい」はまだまだ少ないのではないだろうか。それで(私には)考えやすい「他人の子を叱る」とタイトルを変えてみた。

 久しく子どもを叱ったことがない。某(こども関係の)施設で勤めていたとき、私は体罰の疑いに巻き込まれた。該当事案に覚えはあるが、それであれば絶対に体罰はしていない。叱った覚えはある。諭すために体には触れた。それを体罰というのであれば、という思いから(そのこと以外にも理由はあったが──その理由のほうが優勢)退職を決断した。
 荒々しい冒頭になってしまった。叱った記憶は、あと2件ある。一つは大声で。あと一つは体罰だ。大声のときは、そばに保護者(親)もいて、親の存在に気づいたときは気まずい思いをした。後者の体罰については、一緒に暴れている誰でもよかった。誰かを諫(いさ)めて、荒れる(興奮している)気分を収める手段として選んだ。1年生だったと記憶している。しかし、手をかけるということはとても気まずいものだ。
 このタイトルで記したいことは、こんなことではない。「他人の子を叱る」というタイトルを自分で置きながら、置いてしまうと思い出してしまった。

 私自身、子ども(小学生)の頃、近所のおばさんによく怒られた。ボールで遊んでいてガラス窓を何回も割ってしまった。「ごめんなさい」と謝り、ガラス屋に走ったものだ。修理代を友達と分担した。弁償することをこのときに学んだ。
 近所のおばさんの、小言の実際は何も覚えていない。言いたい事は、地域のおとなに見守られて育った(育てられた)ということだ。
 申し訳ない。ノスタルジアになってしまった。今の時代、自分の子でない「よその子」を叱れるのだろうか。

 クルマに突っ込まれ散歩中の園児が死傷するという痛ましい事件が起きている。私が関わる保育園では、野外活動で散策を始めるその最初は、クルマと交叉する道路をわたることになる。園児に「みぎ・ひだり・みぎ、(クルマの)おとは?」と声かけする。おとなは、近づくかもしれないクルマを見つけては誘導する。(もし突入してくるクルマがいたら自分は守れるか?)と私は自問する(命懸けだ)。これは大袈裟だとしても、かつては、近所のおとなが遠慮なく子どもに声をかけていた。しかし現在は、登校時に引率するボランティア、”子どもの見守り隊”が日常化し、一方そこにかかわらないおとなは余程のことがない限り、子どもに声かけすることはまずない。不用意に声かけすれば「声かけ事案」として防犯メールやSNSで通報されかねない。

 子ども周辺に、確かに事件があり、親の不安があるだろうことは確かだ。対応するために、あるいは社会秩序のために防犯対策が先行している。「地域で子どもを見守る」はむしろ実践されている、といえる。
 朝、横断歩道で登校時の様子を見守ったことがある。対角線上にお巡りさんがいた。登校の列がなくなって、見守っていたおとなたちが解散したとき、おまわりさんが私に寄ってきた。ふだん見慣れない(不審に?)と思ったからだろう。いろいろと話しているうちに打ち解けて、「自分は○○(但馬地方の○○と言ったように思う)から赴任してきました。我が子(幼児)をどこに預けたら良いか?」と身の上相談にまでなった。

 子どもとおとながかかわりあう場面は見守りだけでなく、未来のおとなになる子らと、かかわり続けている、と言いたい。タイトルに置いた「叱る」は、子育ての理解が進めば、叱らなくて済めばそれでよい。

2021.9.1記す

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