||||| 非合理をかかえこんで、変わりつづける |||

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 5歳児の背丈は1メートルほど。その背丈ほどの踏台を用意して、保母はクラスの子どもたちに、踏台から飛び降りさせようとしている。嬉々(きき)として何度も試している子もいれば、今にも泣きだしそうな子がいる。そして、何かの拍子に初めて飛び降りた子は、さっきの心地を何度も確かめるかのように、別人のように自分の順番を待っている。
 おかあちゃん・おとうちゃんと呼んでいた言葉を、おかあさん・おとうさんに、おふくろ・おやじと呼び方を変えようとする年頃がある。その呼び変えに要する時間が、どの程度の日数的幅があるのかは定かではありませんが、呼び方を変えてみようと思いついた青年の心はおだやかではありません。しかし時を経て、何事もなかったかのように呼び名を使い、呼ばれる方も慣れてしまうことになるわけです。

 会議で発言するとき、私は今でも緊張してドキドキしてしまいます(しゃべり始めれば、すっかり落ち着いてしまうのですが)私のように、でしゃばってしゃべりすぎ、他の人の発言時間まで取ってしまう不心得な者がいると、発言機会を見失いがちの人が多くいるにちがいありません。
 (生まれて初めて、というのは極端かもしれませんが)人前で自分の意見を述べるのは、途方もなくむずかしいことです。思いあまって、サッと手をあげたものの、指名されてみれば、思うことのいくらも言えなかったという経験は多くの人にあるでしょう。良き議長ならば、勇気ある発言に敬意を表し、発言の意のあるところを参集者に再度伝えてくれるものです。そうすれば、2度目には、もう少し落ち着いて発言できるようになるでしょう。

 世の中、エライ人・リッパな人はいくらもいます。しかし、私は、変わりつづけようとする人がエラクてリッパで、好きです。踏台を飛び降りた5歳児・呼び方を変えた青年・発言した勇気ある人、皆それぞれに変わろうとした人です。保母さん・おかあさんとおとうさん・議長さん、この人たちは、変わろうとしている人にあたたかい手を貸した人たちです。
 繰り返すまでもないことですが、変わることは、ほんとうに大変なことです。赤ちゃんのときから、私たちは、本能的に、変わろうとしているように思えるのです。その内なるエネルギーがその人なりの「個」を築いていくことになるでしょう。
 ところが、私たちは、子ども時代から大人になるにつれ、変わりつづけることを止めたくなります。なぜでしょう。「非合理から合理に向かう」というのが、私の〈成長観〉なのですが、それにあてはめてみれば、止めたくなるのは仕方がないことなのかもしれません。避けられない道とでもいえるでしょう。
 にもかかわらず、変わりつづけることを訴えている理由は、合理に向かうのは避けられないまでも、非合理をかかえこみながら生きて欲しいからです。

 私たちをとりまく状況は、かたときもじっとしていません。我が子の年齢・社会の変化・科学の進展・配偶者との関係・仕事の事情──複雑にからみあい、たえず変動しています。変わりつづけようとすることが大変なだけに、自分を抑圧する形で、ひらったくいえば、ガマンしてガマンして、今の状況を維持しようとしているにすぎません。
 どうやったら、変わりつづけようとすることができるか。出会い塾とともに考えていこうではありませんか。

1986.10.1記す

オリジナル 1986.10.1

 5歳児が飛び降りようとする高さを書き出しにしていることに、我ながら驚いた。1986年10月、わたしが36歳のときだ。「合理/非合理」は、遊びを考えるには重要な要素だ。その対比に触れている。

参照:
(1) 目線の高さに……と、言うけれど
(2) いつから「おとな」で、遊びを考える。

2026.3.1再録

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