||||| いつから「おとな」で、遊びを考える。 |||

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「学ぶ」は「まねぶ」が由来らしい。
真似る(まねる)ということか。
乳幼児の遊びは、真似るから始まる。
ひとは一生、遊ぶことが大切なのかもしれない。

遊びを考える、ためのナビゲーション

 「遊びとは何か?」──これを問い始めると底なしの沼に足をとられる気がしてしまう。子どもだけでなく、おとなを対象にしても、「遊び」を使用する。〈子ども〉については、5歳の幼児と小学5年生を同じに考えるわけにはいかない。にもかかわらず、そこを区別せず「子どものために」とサービスを提案していることの多いこと。結果、果たして「子どものために」なっているのか?と思ってしまうこともしばしば。
 即ち、遊びを考えるには、幾重にもかさねて検討するほかないようだ。

+ いつから「おとな」で、遊びを考える。 ……このページ↓下
++「こども」とは、だれか?
++「九歳の旅立ち」を命名する
+遊びの発生」と「笑いの起原」
+「遊び」の意義は、幼稚園教育要領に275回……
+ 認知と非認知(能力)
++ 守屋光雄 & かこさとし ── 遊びの理論
+ asobiもどき+本来の遊び
+ 遊びのアイテム
+ 発達の最近接領域 =「初めて」の意味
++《 3つの体験 》& ハートスケール
+ ぼうけん:たんけん を区別しよう

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いつから「おとな」で、遊びを考える。

〈遊び / ゲーム〉と〈子ども / おとな〉で、比較する

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 ゲームはそれを行うルールを、参加する者全員が諒解していることを前提にして始められる。ルールを知らない者がいるときは、ルールの説明を受けるか、最初は見学してわかった時点で参加する方法がとられる。遊びの場合、ルールを「遊び方」とも言うが、遊び方を説明してから遊び始めることはほとんどない。
 たとえば、じゃんけん。じゃんけんから始まる遊びは多いが、じゃんけんのしかたを説明している場面に出会うことはほとんどない。2歳や3歳で、十分わかっていなくても、まねをしていつのまにか覚える。
 かくれんぼをするにしても、じょうずな子と混じっておぼえる。「遊び方(=ルール)」は遊びながらおぼえる。遊ぶ仲間=友達、かくれんぼをする場所、そして、遊んでいられる時間が保障されたとき、遊びは成立する。

 ゲームで勝敗を競うとき、ルールは公平でなければならない。ルール破りのずるい人間が混じるとゲームは続かない。しかし、遊びの場合、鬼ごっこで幼い子どもは捕まえられても鬼にならなくてすむ。鬼が10を数えるあいだに逃げる場合、10を数える速さにきまりはない。速く数えすぎるとみんなから文句をいわれてやりなおすだけだ。
 スポーツもルールによって行うが、スポーツが求めているのは「記録」だろう。記録は他者と比較して意味があるので、ルールは厳格に適用される。ゲームの勝敗について、スポーツのような記録が求められれば、ルールをしっかり守る必要がある。他方、勝負にこだわることがなければ「遊び」に近くなる。

〔挿入|参考記事〕自分たちで変えられる遊びのルール

 勝負が決まったとき、ゲームは終了する。遊びも、隠れているみんなが捕まってしまったら終わりだ。しかし、長く遊んでいると、塾に行くからとか、暗くなったからとか、お母さんが呼びに来たとか、仲間が抜けて仲間が減り、誰かが「やめよう~」と言い出して終わることもある。途中で喧嘩して、誰かが泣いて終わることもある。

永田照夫(1976年)『光と水と土の保育』より

 ここまでは、小学生を含む子どもの遊び集団を想定して描いてみた。しかし、保育所など5歳児を年長とする子どもの集団には、上記のような機能はない。保育士が「おとな」としてではなく、擬似的に小学生的な年長者ぶりを演じることになる。幼児20人に対して年長者役の保育士が1人か2人という人数のアンバランスをどのようにカバーするかは、子どもの発達や遊びに対する理解が結果を出すことになるだろう。
 保育士は、担当する子どもに何をさせるにしても、子ども自身の意思(主体性)でとりくみがなされるよう、子どもの心が熟す時間的配慮を行っている。遊びの「かたち」だけを真似るとき、遊びは「ゲーム」と化す。そうした危うさを内包するむずかしい課題であることを指摘しておこう。

「つまずき」でわける子どもとおとなの境

『光と水と土の保育』より

 いつまで子どもで、いつからおとな? 中学生や高校生は子どもかおとなか。こんな問いかけは無意味だろうか。からだはすっかりおとなでも、年老いても、心のどこかに「子どもがいる」と思う人は少なくないだろう。子どもかおとなか、境界のような線引きは、無意味かもしれない。
 それでも、厳然と、「こども/おとな」という言葉はつかわれる。実態としてもその存在は認められる。保育という職務で「子ども観」を問われるとき、同時に意識するのは、子どもが置かれている環境(社会的・自然的)であり、歴史的背景であり、子どもの将来=おとなの世界であろう。
 そこで、私は提案したい。子どもとおとなをどこで区切って見分けるかを──。それは「つまずき」。人間はその成長過程で必ず失敗する。他者に迷惑をかける。そうした「つまずき」を重ね、つまずくことで成長する。

 人間は、いつから「つまずく」か。あかちゃんが、1歳児が、こぼしまくって食べる、その様子を失敗とみる人はいない。歩き始めた乳児がころんでも、それは、つまずきでない。2歳児が、ものをとりあい、泣かせたり、かみついたりする。よくないことであっても、相手の気持ちをどうやってわからせようかと保育士は悩む。保育士のつまずきかもしれないが、子どものつまずきではない。5歳児、友達と遊んでいて思うようにならず喧嘩になった。喧嘩をみていた子どもたちも考える、どうすればよいかと。つまり、就学前幼児のそれらは「つまずき」ではない。問題解決の方途を彼らに求められない。

中田幸平と児童遊戯」とタイトルされた文章より。文末部分。文/平塚市文化財団(飯尾紀彦)
//人間形成に子どものあそびは不可欠であり、そのあそびの世界が痩せ細っていくことに強い危機感を持っている。子どもは自然の中であそび、視・聴・嗅・味・触の五つの感覚の美意識を学び、子ども同士の遊びの中で勝ったうれしさ、負けたくやしさ、作る喜びを知り、失敗を糧とし、闘争心、我慢、思いやる心を養い成長して行く。それらのあそびが親から子へ、年長者から年少者へ伝承されてきた。失敗経験のない過保護に育った子は大人になって失敗を受けとめられず逆上してしまう。子どもが木、紙、草などに働きかけて、自分の知恵で作るおもちゃは尊い。今、まずできることは、親が小さな時おもちゃを作って遊んだ遊びを子どもと一緒に遊ぶことだという。//
※文中の表記では「2001年」を「最近」としている。
※「失敗を糧」は、まさに「つまずき」である。

「非合理」を受容する

 では、「いつから」問題解決に立ち向かわせればよいか。その「いつから」に符号するときを「おとな」の起点と考えてみる。嫌なことは避けたい、こわいことはしたくない。そういう思いから合理的選択や判断を下すようになる。
 おとなに向かう成長とは、非合理から合理に向かうことではないか(不合理ではない)。おとなになっても「子ども心」を持つといわれる人は、おとなである証の合理的思考をしながらも、非合理な部分を併せ持つことではないか。おとなとしての合理を、非合理のなかで生きている子どもに押しつけてはならない──と、保育士の多くが自覚し悩み格闘する。非合理を受容することは、親子の関係でもいえるが、忍耐のいることである。忍耐を支えているのは、愛と理解であろう。
 ここで一つの解が得られる。少なくとも就学前の幼児のあいだは、非合理を十分に経験させることが大切であり、それは即ち「遊び」の重要性を意味する。ルールに支配されるゲームは、合理の成果物であり、遊びとゲームは相反する。


矛盾」と共存する(内山節)

山鳥重『心は何でできているのか』2011年 角川書店 p208
//こころは全体的経験がどんどん分化してゆく過程なのです。あるいは、部分がどんどん増えてゆき、これらの部分がどんどん全体に組み込まれてゆく過程です。こうして、こころの階層性が出現してきます。//

毛内拡『面白くて眠れなくなる脳科学』2022年 p186
//〔人間は〕思ったほど合理的でもなく理不尽で、情に流され、ミスばかり犯すからこそ、それを克服しようという目標が立つと考えられます。逆説的ではありますが、むしろ不合理で感情的な部分こそが人間らしさだと思えます。//

決まりごと(法)ではなく自尊心(道徳)を

 非合理と合理、遊びとゲームの違いを、「道徳」と「法」で考えてみよう。「法」は規則、決まりと読み替えられる。「してはいけません」あるいは「しつけ」の場面でつかわれる言葉が隣接する。「道徳」は決まりごとではなく自発的な行為に期待されるものだが、「してはいけません」や「しつけ」の場面でも道徳的な導きをうながすこともある。(参考図書、渡辺洋三『法というものの考え方』1959年)
 合理的判断、価値観を幼児にわからせようとしても通じない。したがって、決まりごととしてしつけたり教えこもうとする。押しつけるのでなく気づかせる工夫をしたいと考え、時間的配慮を行い(待つということ)、自尊心を育てていくのがよいと考える保育士は多い。イソップ寓話にある「北風と太陽」のごとく。非合理を十分に経験させるには「遊び」が適しているように、自尊心を育て規範のもとになる道徳を身につけるに適しているのも「遊び」だ。将来のつまずきに備えて自尊心をしっかり育てておきたい。

あかちゃんは”冒険家”として生まれた

 最後に、曖昧、適当につかわれている「冒険」と「探検」の違いを明らかにして、子どもの将来に夢と希望をもちたい。

  • 新明解国語辞典第三版によると──
    • 冒険…危険を承知・(不成功を覚悟の上)で行うこと。
    • 探検(探険とも書く)…危険を冒して、未知の地域に踏み込み、実地に調べてみること。

 「南極観測」は「南極探検」と表記することを嫌った政府による呼称であり、政府は危険を冒してはならないとした(本多勝一『冒険と日本人』)。しかし、人類未到の地だった南極大陸では、1911年、アムンセン(ノルウェー)が南極点に到達し、これはまさに冒険だった。大陸の発見、極地点への到達は、”大陸の探検”へ道を拓(ひら)いた。ジェンナーによる種痘の発見は地球上から天然痘を消滅させた。これを境に子どもは「死なない存在」となり、子どもの未来を考えるようになった。社会の関心事に「子ども」が加わった。冒険から→探検へと、人類の歴史に学ぶことは多い。
 あかちゃんが生まれ出たその瞬間は、あかちゃんにとって”冒険”だった。冒険は多くの人びとに支えられて初めて成立する。それがなければ「死」が待っていることもある。そう、わたしたちは「冒険家」として生まれた。あかちゃんの冒険は、誕生を待ち望む愛で見守られ抱き上げられた。
 冒険家として生まれたことは「無限の可能性」を意味する。そして、単刀直入にいえば、子育てとは無限だった可能性を摘み取っていくことだ。皮肉な言い方をして申し訳ないが、わたしたち(おとな)は子どもとかかわるなかで無限のままにしておけない。子どもの可能性を選択的にみてしまう。合理的選択は、非合理の世界にいる子どもをそのままにはしておけないのだ。
 そこで「遊び」が登場する。幼少期にしっかり十分に遊ぶことが、冒険家から探検家へと道を拓(ひら)く。

結論 … 子どもとおとなの境界は ……

 では、「つまずき」を体験させ、自分で問題解決にあたらせる、つまり「おとな」はいつからだろう。私は、10歳を超えてからで、小学5年生くらいを一つの目安に考えている。つまずきに耐えられる自尊心をそれまでに十分育てておく。たっぷり遊ばせておく。あくまでイメージ的な捉え方で、子どもとおとなの中間、移行期を年齢では8,9歳頃、学年では小学3,4年生を目安とする。「おとなになったばかりの子ども」または思春期・青年期は、必要に応じて、親たち「おとな」が手助けすればよい。それが「おとな」の役割と考える。自尊心を支えに主体性のある人間へ。このように考えることで「遊び」の必要性、重要性が伝わればと願っている。

2022.12.7Rewrite
2021.1.25記す


追記 2022.6.18

 「遊び」は右脳優位、「ゲーム」は左脳優位という考え方ができるのかもしれない。

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