小学生のとき音楽の時間で「故郷(ふるさと)」を歌った。今も歌われているのだろうか。「うさぎ追いし……」とくちずさみながら、自分には〈ふるさと〉がないなあ~と思っていた。〈ふるさと〉とは何だろう?
歌詞にあるように、うさぎに出会うことは都会に住む子どもはまず経験しない。ふな(魚)をとる経験も限られる。メロディーを奏でる音風景にふるさと感があるかもしれないけれど、リアル(現実)でなくバーチャル(非現実)でしかない。
私は姫路で生まれた。雑居部屋の一隅にいて、サーカス団の役者らと一緒だったという。1950年のことだ。母が健在のうちに確かめると、祖母宅に3歳の頃から、しばしば預けていたと渋々語った。記憶で呼び出せるのは、なぜか田舎の景色と小川だったから、その謎解きをしておきたかった。播州平野に流れる林田川を西端としJR網干駅との間が私のふるさとだ。今は電車基地がある西端あたりだ。
近郊でも旅行先でも、水草がゆれる澄んだ小川の流れに出会うと胸が痛む。3歳の記憶はないが、小学1、2年生の頃は、夏休み40日間ずっと田舎にいた。お盆で両親が田舎に来ても、私を残して帰って行った。柱の陰で泣いたことを覚えている。(帰りたい)と言えなかったからだ。言ったとしても連れて帰ってくれないからだ。祖母は(家のない子)と言い、それをかわいそうと言っていたと、母が漏らした。祖母におんぶをねだり、歩いている途中でつまずき、背負ったまま顔面を強打した。血だらけになり鼻の下が大きく裂け一生の傷になった。それを見るたびに〈ふるさと〉を想い出した。
4歳までは確かに家がなかった。5歳から23歳まで、男3人きょうだいの5人家族は4畳半と2畳の二間で18年間過ごした。長男だった私は、弟が幼少で預けられたということらしい。そうした田舎体験が今の自然志向につながったのだろうと、これは確かに思う。私事が長くなってしまった。
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〈ふるさと〉を唄う歌は多くある。例をあげるまでもないだろう。飛行機で世界中どこにでも短時間で移動できるし、インターネットの時代でもある。通信も物流もその必要が生じれば地球規模で移動できる。コロナもそうしてやってきた。〈ふるさと〉の定義は変更しなければならないのかもしれない、少なくとも都会に住んでいる人たちには。
──そして、〈ふるさと〉に、どんな意味があるのだろうと考えてしまう。
東北大震災をきっかけに毎年出かけるようになってしまった東北。仙台空港から石巻方面がメインルート。これまではレンタカーで走っていた。石巻のある中学校で、「クルマがないと暮らせない」という先生がいた。それが耳についていて、そんなもんだと思い込んでいた。震災から11年が経過し、復興住宅での生活が定着してくるなどして、わざわざ出かけていく必要はほぼないように思えてきた。関係をもった保育所もそれぞれの施設が運営方針を立てて進めている。そういうなかで人間関係が出来てしまった。今はその縁だけでつながっている。
いつかは運転免許証を返納しようと私は思っている。クルマなしで東北に行けるだろうか? そう思い始めて、先月7月末、それを試みた。空港からは鉄道で小牛田(こごた)まで行った。駅からの景色は見渡す限り田園。線路が縦横にいくつも敷かれていた。駅は広大だが、車輌は見当たらないし人も少ない。ここで乗り換え、前谷地(まえやち)に向かった。前谷地は無人駅。ここでBRTに乗り換えるのだが待機しているバスに乗務員がいない。にぎり飯を2つ食べた。
付近の地図が示された案内板を見るとJR石巻の方向がわかり、次回はここから歩こうと思った。1時間近く待ってバスが動いた。乗客は2人。間違えて来てしまったという京都からの高齢女性と私。陸前戸倉で下車(わずかに3駅目だが50分乗った)。クルマはたくさん走っていたが、地面に足をつけているのは私一人。東へ進むとすぐに太平洋が見えた。南三陸町の海岸に出て南下した。道路が真新しい。リアス海岸ということもあるが、津波被害に備えて高台に道は拓かれている。海は眼下に広がっているはずだが遠くて見えず、山の中を歩いているというのが実感。海とのあいだに集落がある。いくつもあって、バイクに乗った局員が郵便物を届けている。墓地が点在している。個々の家に通じているらしい有線放送の声が聞こえる。幹線道路から外れて農道にクルマが走る。その道が住戸で消えて再び見える。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という室生犀星の詩句が思い浮かんだ。(ここを「ふるさと」と思う人はいるんだろなあ)
海と山の谷間に狭い田畑。くねった道筋。思い出が記憶の奥にたっぷりありそうな気がする。リアス海岸は長い上り坂、長い下り坂を繰り返す。カーブで大きくまわりこみ、これも繰り返す。景色が変わり新たな集落が目に入る。
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この世に生まれたその瞬間(とき)を覚えていない。3歳頃の記憶がある人はまれでおよそは5歳頃からだ。死ぬときはどうなのだろうか? 生理的に水分が摂取できなくなるらしい。苦しいのだろうか? 痛いのだろうか? 楽観的にはそうでないらしい。臨終間際を含めて「記憶」は意味を失う。私たちの人生は、早くて3歳頃から臨死前の意識がまだあるときまでなのだ。葬式も墓も自身とは無関係だ。故人を含めた歴史(道程)を、残された人たち(個人または集合体)が執り行う文化といってよいだろう。リアス海岸の道を歩きながら、私は「(この道を)もう一度歩きたい」と思った。それは「ふるさと」という想いの萌芽かもしれない。
(参考) 鷲田清一「死の経験」
フラン・ピンタデーラ(文)/アナ・センデル(絵)の絵本『どうして なくの?』の最終場面にはこうある。//── しあわせだなって なくことも あるのよ!//
「しあわせ」って、なんだろうと考えさせられてしまう。「ふるさと」は必要なのだろうか? という疑問が湧いてきた。
海や山、田畑の景色に包まれて育ち、同じ学校で学び遊べば「ふるさと」につながるかもしれない。しかし、都会はこの条件がそろいそうにない。「ふるさと」は土地につながれていることなのだ、と思ってしまった。戦争あるいは災害で土地から強制的に離れざるを得ないとき、「ふるさと」を失う人が多く現れる。失うということは心の行き場を失うということかもしれない。一方、この事例から離れて土地に縛られない場合、転校や不登校、転勤・転宅などで「ふるさと」がない、あるいは「ふるさと」の必要を求めない価値観も有り得る。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」は今も教科書で習うのだろうか? 薄っぺらな解釈で納得したくない。詩作として犀星個人に帰することはあるだろうが、人間の生きざまの多様性は当時よりさらに複雑になり主体性が重んじられる時代になっている。まわりと同じことをしていればよいという時代ではない。「ふるさと」は固定観念からはみだしている。
若いとき、およそ20代の頃は、「ふるさと」という言葉は余所事だった。
ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの
室生犀星の名作とされるこの詩も、”名作”として味わう程度のものだった。
コロナ禍で、世紀レベルで時代の変化を想像するようになった今、”ふるさと”を我が事として実感するようになった。
私の「ふるさと」は3つある。1つめは、林田川以東の播磨平野。私は長男で育ったが、貧しかった。90になった母に確認すると、3歳のときから、しばしば母の母宅に預けられていたらしい。母の母、つまり祖母がいたのが播磨だった。「家のない子」と祖母は泣いたという。播磨の田舎で育ったことが、自然好きな基礎を育ててくれたと私は思う。2つめは、神戸市兵庫区の平野。有馬街道と都会の接点だった。ここに19年住み、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学の初めと、子ども時代から青春期まで過ごした。だから、友達の顔と地域が結びつく。
今の明石に移り住んで35年になるが、隣の町名すら覚えられない。「まちづくり」には深くかかわっているが、ここは「ふるさと」にならないだろう。
ふるさとの3つめは芦屋だ。私のふるさとではない。ここでかかわっている子どもたちが〈芦屋をふるさと〉と思うようになるにはどうすればよいだろうか、と考えている。そして、「ふるさと」とは何だろうかと、コロナ禍で考えるようにもなった。それは、大切な発達の時期、育ちの時期を、コロナが奪ったからだ。正確に言えば、コロナが奪ったのではない。コロナに脅える子どもとその親、地域を導かない政府が奪った。
ふるさと=地域。ここ芦屋で育つ子どもらに、誇りをもって「ふるさと」を創出したいと思う。
2022.9.19記す