子ども期の再生

子ども期の再生 | 動機

 1970年代初め、”団地”住まいの家庭で育てられる子どもに”鍵っ子”というラベルが張られた。

 当時、公害訴訟の判決が次々と下され、環境への関心が急速に高まり、破壊されてゆく自然を守ろうという運動が全国に起きた。環境に関心が高まるなかで子どもが取り残されると私は思った。そのことが、子どもを対象とする野外活動(自然教室「子供と遊びながら自然を守る」)へと結実した。
 それから半世紀、子どもたちの「遊び」はますます失われつつあるように思えてならない。評論に終わらず、たった今 成長しつつある乳幼児を含めた子どもを取り残さない取り組みが急がれると思った。「ルネサンス」を掲げ、すぐに実践できる提案をしながら、さらに、継続して何が出来るか、自問自答/試行錯誤している。

The Renaissance of Childhood

子育てを、19世紀(明治中期)以前に学ぶ

 //徳川期の文明はこのように、大人と子どものそれぞれの世界の境界に、特異な分割線を引く文明だったのである。そのような慣行は明治の中期になってもまだ死滅してはいなかった。//
 この記述は、渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社(2005年;元版は葦書房1998年刊行)397ページより。
 「死滅」がいつだったかは明らかではないが、過去のことになってしまった。
 //この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこに消えたのであろう。しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うこととおなじだ。//p412
 かねてより、江戸時代の子育てについて、今日では失われてしまった多くの何かがあったのでは?と関心をもっていたところ、幕末から明治へと移り変わる時代に日本を訪れた西洋人の多くが残した記録によって真相が明らかにされている。
 「第10章」に「子どもの楽園」(p387-426)が当てられている。
 //「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」//p390 と語るのは、1877年に来日してきた動物学者モースだ。

 //モースは来日間もなく田植えの風景を見たが、親も子もいっしょになって働いている傍らの田の畔(くろ)では、小さな子が赤ん坊を背負って一家のすることを見物していた。「子ども六人いれば五人まで、必ず赤坊を背負っている」と彼は記している。//p404
 //「出会う女性すべて、老若の婦人も若い娘も、背中に子供をおぶっていること」におどろかされた。しかも「肩にしている赤ん坊とほとんど同じくらい小さな子供に、こうして背負われている子供さえ見える。これほどの子供をどこで〔他の国で〕見つけられるだろうか」//p404 と、エミール・ギメが語っている。
 子守をする子どもが一般であることや家庭の貧困は課題ではあるが、おさなごを片時も離さず愛情をもって育てているということを強調している。
 夫婦の生活から子育てが切り離されている西洋に対して、子育て事情の違いに驚いている。
 //ツュンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない、。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船〔旅行中の船旅〕でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。//p393
 //カッテンディーケは長崎での安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で主張するところとよく似ていると感じた。「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」〈中略〉 「彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」//p392

渡辺京二 / 1930年生まれ / 日本近代史家

 上述したように、こうした事情は「過去」となっている。1889年公布の大日本帝国憲法で兵役が義務とされた。幕藩体制が崩壊し身分制度が廃止になり国民国家をめざす国づくりの渦中にあった。それとの関係を私は示せないが、「大人と子どものそれぞれの世界の境界に、特異な分割線を引く文明だった」(上述)が、この良きことを国家によって崩壊へと向かわせたのではないか。

 世に生を受けても、疫病にかかるなどして必ずしも生きながらえるとは限らなかった。やがて、医療や衛生思想が普及しこれを克服してきた。他方、宗教世界から解放され、科学や産業の発展で子どもに教育の機会が与えられることになった。先進国では総じてここ200年乃至300年前のことだ。

 ※ 本田和子『子ども100年のエポック』を読んで…

 さて、今では「豊かさ」を傍受できる。飢えることなく、欲しいものはなんでも手に入る。商品を購入したり余暇を楽しむことで心の豊かさも満たせる。しかし、何かが足りない、満たされていないと思う人は多い。子どもは不足を感じると要求する。「満たされていない」ことが不満になるのだ。
 『子どもはもういない』(The Disappearance of Childhood / ニール・ポストマン 1982)は、子ども期 Childhood の消失を警告している。つまり、200年乃至300年前のさらに過去へ、子どもの置かれている状況が逆戻りしているというのだ。
 子どもが育つに必要な諸条件を、「豊かさ」と引き換えに置いてきてしまった。それを取り戻そうというのが、私の提案する「子ども期の再生(ルネサンス)」だ。
 『〈子供〉の誕生』(副題:アンシァン・レジーム期の子供と家族生活 / フィリップ・アリエス 1960,1973)は、西欧において〈子供〉の主体性が認められるようになるのは、19世紀が到来してからという意味合いだ。その子ども期が消えつつあるというのだから、どう思考したらよいのだろう。

2022.8.25Rewrite
2018.9.15記す

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