|||||「お寺の鐘」と、記憶 |||

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//秋の夕暮れなぞ、ひとりで物思いにふけっているとき、お寺の鐘が鳴る。そのときは気がつかなかったのに、しばらくして、ふと、われに返って、ああ、そういえば鳴ったなと、その音を思い出すといったことは、たれしも経験されたことがありましょう。つまり、記憶ということは、とくに意識しなくとも、ちゃんとおこなわれている。知らぬ間にからだのすみずみにまで入り込んでいるのです。わたしどもはこれを「無意識の体得」とよんでいますが、この知らぬ間に身についたものが、何かのきっかけで、これまた知らぬ間に外に出てくる。世間でいう「地金(じがね)が出る」ことです。// 三木成夫『胎児の世界 人間の生命記憶』1983年 中公新書 p5

 お寺の鐘──これを耳にしたのはいつの頃だっただろう? 釣り鐘の”中”に入ったらどんなだろうといたずらな気持ちで試したこともあった。そのとき気づかなかったのに、しばらくして耳にしたような記憶というのは、お寺の鐘でなくても、誰かから声かけされて、ふと気づくということもある。あった。
 記憶は《記銘|保持|想起|忘却》の4つの段階がある。わたしたちが”ふつう”につかっている記憶は「想起」をさしている。お寺の鐘も誰かさんの声も「記銘/保持」されているらしいのだ。それを、想起しようとするかどうか、だろう。

 記憶についてもう一つ。いい話だなあ、憶(おぼ)えておこう、と思っただけでは「忘却」しやすい。メモをする。口に出して確認する、交通安全「右よし・左よし」のように。新聞なら切り抜く(だけでよい、整理無用)。つまり、「思っただけ」でなく、動作を一つ加えればよいということだ。おそらく記憶する働きが脳のなかで複数になるからだろう(勝手な推測)。

 「知らぬ間に身についたもの」──これは、なかなかのこと。筆者の三木成夫はこの「知らぬ間」を人類をさらに超えて地球の生命にまで演繹する。これには適わないが、あかちゃんがなんでもなめまわすことは、まさに「知らぬ間」にあてはまる。
 かたはめで遊ぶ1歳の子。「こころ」の芽生えがそこにある。無意識の体得、だ。

2022.12.3記す

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