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大熊孝『技術にも自治がある』農文協 2004年
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//私は、1942年に台湾の台北市で生まれ、1946年に着の身着のままで引き揚げてきた。小さいながらリュックを背負い、暗い中を鉄道線路伝いにとぼとぼと歩いた記憶が蘇る。我が家は、祖父・祖母が日清戦争の直後に官吏として台湾に渡り、両親とも台湾で生まれ、台湾永住を決め込んでいた。それゆえ、わが一族の財産は日本にまったくなく、リュックに背負ったものだけが全財産であり、引き揚げ後しばらくは貧乏のどん底の生活を強いられた。//
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//祖母は空き地とみれば畑を耕し、ジャガイモからトウモロコシ、さらにはアワやキビまでつくった。しかしそれでは足らず、祖母とともに山や川、海に行って山菜や木の実、鳥、魚、貝など食べられるものは何でも採取してきた。小学校に入る前は、高松の栗林公園の裏の山裾に住んでいたが、山遊びですでに鉈(なた)を振りまわしており、母や祖母の笑顔を期待して、薪や山菜を集めて帰ったものであった(いまでは幼稚園の子供に鉈をあずけることはほとんど考えられないが、当時は山遊びをするものには鉈は必須の道具であった)。小・中学校では、東京湾沿いの幕張や稲毛に住んでいたが、学校から帰ると毎日潮干狩りに行かされ、アサリやハマグリをバケツ一杯とってきて、それを三食とも主食代わりに食べていた。思い出すのは、夏、泳ぎに行ったとき、腹がすくと、海底のハマグリを足先で採って、潜って二個とり、それをぶちつけて割り、中身を海水で洗い、刺身よろしくそのまま食べたことである。まさに、私の身体は貝でできたようなものであり、少し豊かになった高校生頃には貝は見るのも嫌になったほどであった。//
……読んで、思ったこと/感想……
鉈は刃物であるが、幼稚園児つまり幼児が道具として扱うには、重い。伐る対象の薪(たきぎ)も、持ち帰って役立てるにはそれなりの量(かさ・重さ)が必要だ。道具を身につけ、収穫物(薪など)を運んでいる幼児を想像してみるが、もはや空想でしかない。坂本遼『きょうも生きて』で先生をかつぎあげ山から連れ帰る小学2年生の体力やその動作・しぐさに驚嘆するが、この二例はほぼ同時代である。
校庭(園庭)で、体育などで見せる体力ではなく、生活(つまり、生きること)において、かつて幼年時代の子らは、必要とあれば、やりとげていた、ということを認めるしかない。では後年に至って、スポーツを志す者を除いては、なぜかつてのような体力と動作をもちあわせなくなってしまったのだろうか。
当時の貝は生食して安全だったのだろうか。貝でできたようなものというほどに刺身を食べたのだろうか? 疑問形にしてしまっては失礼だ。安全だったのだろう。貝毒を気にすることないほどに、海は汚染されていなかった、ということなのかもしれない。
2022.12.23記す