体験1. 感動する体験:1回だけ
体験2. 繰り返す体験:もう1回
体験3. [食べる体験]:あしたも……
繰り返す体験(体験2)が感動する体験(体験1)を生む。体験1が体験2を促す。そして、再び〈感動する体験〉を生む。乳幼児期のあいだ、無数にこのサイクルが営まれ、一人一人異なり同じものがないハートスケールが存在することになる。
長じておとなになって、子ども期によく遊び多くの体験をすることで、体験2の先にはいつか体験1が現れると信じるあるいは確信となり、先のことはわからない・見えなくても、今取り組んでいることを励むようになる。または、目標を立てることが出来る。
第3の体験「食べる体験」
生まれたその瞬間から「体験」が始まる。親が子育てに愛を注いでいることに対して、あかちゃんが体験するであろうことにも意味があろう。
「体験3」を含む関係は上図のとおり。「体験3」のネーミングを「食べる体験」とした。「食べる」は象徴として使用した。きょうと同じ日が、あすもまた来る。安定した日々の暮らしが体験1/体験2を支える。
「食べる体験」と「食べる」ことの意味
2歳、3歳児のすっかり はえそろった歯は美しい。ちいさいからだ、ちいさな手、しかし、大きな口をあけて見せてくれる歯は、からだに似合わない力強さを感じさせてくれる。豆まきで、煎った大豆(しっかり かむんだよ!)を口に入れ、ゴリゴリと音を立てる。口に入りきらないリンゴをかじる。さかなだって、平気だ。どこが食べられるかな、見分ける目と手の愛らしいこと。
体験とは、特別なことだけではない。おなかがすいて食欲がわく。空腹を満たす意慾が生きるエネルギーとなり快感をもたらす。一緒に食べる仲間・友達・家族と共有する時間が生活の基礎となり、食べものを供給し、調理する人たちをも結ぶ。
「(子どもに)体験」させたい、と思うおとなにありがちな間違いを指摘しておこう。2、3歳の頃はほぼ例外なく、5歳児であっても、その頃の体験は彼らにとって「はじめて」のことだ。おとなが用意したサプライズは、幼児には特別なことでなく「ふつう」なのだ。「楽しかった? びっくりした?」と訊ねれば、「楽しかった、びっくりした」と応えるだろう。「おもしろかった?」と訊ねれば「おもしろかった」と応えるだろう。それらは鸚鵡(おうむ)返しではなく応答の練習成果であって、発せられる言葉(字義)通りでないことを承知しておいてほしい。
「食べる体験」は毎日、空気を吸うように散らばっている体験だ。見守られて安心して得心のゆく時間がすぎさってゆく。あかちゃんが泣く。おなかがすいているのかなと乳をあたえて、すやすや眠る。その泣き声は、あかちゃんの言葉であったことを発見して母もやすらぎをおぼえる。その延長線にとぎれることなく「食べる」ことの意味がある。
「体験」とは特別なことだけではない。「ふつう」を十分に満喫し、あるとき「特別な」体験にめぐりあったとき、子どもは小躍りして喜ぶ。「もう一回して……」とねだる。安定して、過不足なく生きていられる日常こそが大切なのだ。わたしたちおとなは、ちからを抜いて、せめて子どもの前では笑顔で向き合いたいと思う。
(参考)「食べる」ということ
2023.7.3記す