|||||「待つ」を、まだ知らない:乳幼児の時間意識 |||

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 「待つ」の獲得は、「学習」によるものか、それとも、身体または「こころ」の成長によって生じるものなのか、わたしはわからない。


子どもには現在しかない:本田和子
+ 章タイトル「子どものおそろしさ」の中見出し

『子どもの発見』朝日カルチャー叢書
+ 本田和子ほか共著
+ 光村図書 1985年

p37
//子どもと大人を、簡単に色分けして、二つの極にしてしまえるものではありません。子どもの中にも大人的なところがありますし、大人の中にも子ども的なところがあるわけですから。ですが、ここで大雑把な分類を試みると、子どもは将来の計算をするよりは現在に執着する存在です。子どもの時間意識には過去も未来もなく、現在だけなのです年齢が低ければ低いほど、子どもの時間意識は現在に集中するようです。子どもは未来的存在であると主張する方もいます。しかし、子どもが大人になりたがっているのは、遠い将来のことを考えて大人になるために準備しているのではなく、「いま大人になりたい」と思っているのです。現在、自分たちがさまざまな不利益を被るから、そう切望しているのです。中には、夢みるように発言する子がいます。//

p37
//「早く大人になろう。早く大人になって一晩中起きていよう」
 つまり、八時になると寝かせられる子の例ですね。子どもは定刻に寝かせられることが不都合でしかたありません。しかも大人は寝ないで、自分たちだけが寝かせられます。したがって、このような不利益を甘受しなければならないのは自分がいま子どもであるからだ、だから早く大人になって一晩中起きていよう、などと思うのです。ということは、遠い未来のことを慮るよりも、いま都合の悪いことがたくさんあるから、出来得ればいまやりたいことを実現するためにいま大人にたりたいということでもあります。ですから、子どもの時間意識の基盤は”現在”とみてよいのではないでしょうか。小さい子どもたちはもっとはっきりしていて、明日のことなどほとんど考えずに、〈いま、もっと楽しく生きたい、もっとたくさん遊びたい、もっとしたいことをしたい〉というのが彼らの生き方なのです。//
※時間を過不足なくつかうには……?

p38
//小さい子どもの時間意識は、私たち大人とはかなり違います。例えば時計で測ったような時間は、小さい子どもに通用しないことがあります。30分も遊んだあとで、「もうそろそろ止めましょうね」といっても、「もっと遊びたい」と抗議されることもあります。大人には大人の都合がありますから、時計を見せて「じゃあ、針がここに来るまで遊んでいていいわ」と5分間の猶予を与えてみる、と、私たちにとっては5分は5分にすぎないのですが、子どもの時間というのは決して均質ではないようで、すわっと集中した場合は30分なり40分にあたる燃焼をしてしまうようですね。決めた時間だけ待ってあげると、満ち足りて遊びを止めることができたりします。//
※「主体性」の課題でもある。
※大人の時間意識→動的平衡

p38
//幼児の段階ですと、そのような例は豊富に見つかります。子どもは昨日のこととか明日のことにあまり関係がないので、突然、昨日とは違う人になったりします。変わったところは、私たちからは些細に見えることもあります。できなかった鉄棒の前回りが一つできるようになったとか、怖くて滑れなかった滑り台を滑れるようになったとか、結べなかった靴の紐を自分で結べるようになったとか、それらの些細なことがきっかけで昨日とは全く違う人になることがあります。昨日までの時間は、その子にとってはなきに等しいものになります。鉄棒の前回りができる、あるいは靴の紐を結べる○○ちゃんという新しい時間がその日から流れ始めるので、過去を引き摺りません。//
※発達の最近接領域
※靴紐は難易度が高いように思うが……

5歳の誕生日を迎えることで……

p39
//誕生日も、子どもによっては昨日と違う人になったことを自覚させるきっかけになることがあります。実際に幼稚園で間近に見た例ですが、先生がお世話をしないとなかなか軌道に乗らなかった消極的な子が、ある朝やってきてから決然とした表情で自分のロッカーに自分の持ち物をさっさとしまったのです。そして、先生のところに行って何か訴えようとしたのですが、先生は他の子どもの世話があってその子の相手ができませんでした。するとその子は、たまたま観察していた私のところへつかつかとやってきて、
 「おばちゃん、今日はなんの日かわかる?」と訊きました。
 「あなたの誕生日でしょう」と、私は少し戸惑ってあてずっぽうにいってみました。
 「そう。でも昨日なの。わたし五つになったの。もう大きいんだから」とその子はいうと、離れたところで自分の遊びを始めたのです。私にはそれが非常に印象的でした。
 〈ああ、この子はもう違う人になったのだ。4歳11ヶ月30日であった昨日と、5歳零ヶ月の今日と1日違っただけで、根底から違う人になったのだな。この子の意識の中では、全く新しい自分が生まれたのだな。それがてきぱきとロッカーに持ち物をしまったこととか、私のところに「もう大きいんだから」と宣言しにきた態度で表現されていたのだな〉と、ちょっとした感動を以てその子どもを見たことがありました。//
※誕生日を画期として変化することには疑問が残るが、5歳になることで、その意識も働き、飛躍的な場面を生じさせるということだろうか。

p40
//だからといって、すべて良い子になってしまうわけではありません。そのような瞬間の決意はまたすぐに崩れますし、友達に苛められれば泣いたりしますが、それでも「わたしは五つになった」とはっきり自覚したことはやはり大変なことなのです。過去を断ち切って新しい自分をきちんとつかむ。まさに「死と再生」の瞬間を彼らが生きることができるのは、彼らの時間がのんべんだらりとしたものでなく、切れ切れの時間ですから、輝かしい「いま」をつかまえたら、未練気もなく過去とか未来とは無縁に燃焼してしまえることの現れではないでしょうか。//
※5歳未満では生じず、人生最初の、自らの意思で画期を生じさせるまでに育ったということか。

p40
//したがって、彼らが将来の計算をするのは下手なのが当然です。ところが大人は、「子ども時代は大人になるためにある」と思い込んでいます。子どもを一人前の大人にするのは大人の責任であることは確かですが、その責任をしょいこみすぎるあまりに、子どもは大人になるための途中でしかない存在と見做されてしまいます。ですから、十歳の子どもの15年後はかくの如き状態であったほうが本人にとって得であろう、とそれこそ例の計算をするわけです。そして、得であることを目指して、教育という名のプログラムで子どもに相対してしまうことになる。大人と子どもは、ここでも時間の意識が大幅にずれていますね。子どもは未来の計算などあまりせずに、現在を徹底的に愛して、燃焼して生きたいのですが、大人の側では計算の上で、未来に向けて、なるべく効率的に時間を使ってほしいと思います。子どもの側が徹底して子どもであろうとすれば、当然、大人と子どもの間に葛藤が起こります。//
※大人の思惑をよそに、これより「ファンタジーの世界」に没入できる、ということでもある。

p41
//その徹底して子どもであろうとしたのが、先の『嵐ヶ丘』のヒースクリフなのです。将来の計算など一切拒否して、いま愛しているキャシーとともに生きようとしたのですが、結局は暴力的な愛としか見做されませんでした。
 「ヒースクリフが悪かったとか、暴力的であったからではなく、ヒースクリフとキャシーが徹底的に子ども的であろうとしたから、結果として秩序社会はそれに対して『あいつらは大変暴力的であり、常識に反する恐るべき奴らだ』という刻印を押したのだ」と、バタイユはいいます。
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p41
//子どもが子ども的であろうとすればおのずから暴力的であらざるを得ませんし、子どもに限らず人間が徹底して子ども的なものを失わずに生きようとすれば、良識の側からは恐るべき反抗児、反逆児としか見られません。//

2023.9.14記す

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