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昆虫に「こころ」は、あるか?

中枢神経系(脳)と「こころ」:「認知」とは
記憶
情動と感情
脳と「こころ」は同時生起(ジャクソン&山鳥重)
福岡伸一「人間は考える〈管くだ〉である」
山鳥重の説:こころは、情/知/意の3層からなる動的構造体
+ 乳幼児の こころ と その発達過程
+ 「感覚も立派な感情」とする山鳥重
自身と「自身でない」知覚

(1)脳研究21世紀:方法と歴史
(2)新しい脳・古い脳:脳は鉄壁
(3)神経細胞のつながり:脳の可塑性
(4)気づきこころ

「心の理論」Theory of Mind

── 中枢神経系(脳)と「こころ」──

 脳のはたらきは、かたい骨に守られた頭部の脳に焦点をあて、その場所で完結してしまうイメージをもちがちだ。
 食べたものは、咀嚼することで唾液がまじり、胃から腸へと消化吸収される。こちらは、わかりやすい。脳のはたらきは「中枢神経系」と認識するほうが適切なようだ。「神経」は全身に はりめぐらされている。ミミズがくねくねと動くように、ヒトの腸も蠕動(ぜんどう)と名づけられてくねくねと動く。「こころのまとまり」は中枢神経系つまり脳のはたらきだろうが、「こころのネットワーク」は からだ全身をおおっているのだろう。

「意識」は、大脳皮質の “どこか” に限局しない

三上章充『脳の教科書』講談社 2022年
p216
//脳はそれぞれの部品である○○中枢がばらばらに単独ではたらくほど、単純なシステムではありません。脳は場所によって役割がことなっていますが、その役割はそれぞれの領域が単独で機能しているのではなく、ほかの役割を持った領域との連携ではたらいています。「意識」についても、いろいろな「意識のモジュール」あるいは「個別の意識」があって、それらが連携しながら総合的な「意識」を形成していると考えるほうが正しそうです。//

認知」とは?

感覚」>「知覚」のステップを踏み、その先に「認知」がある。
三上章充『脳の教科書』講談社 2022年
p223
//「認知」とは、知覚されたものが何であるかを認めることです。//
五感と直観と霊性
p222
//「知覚」は、感覚されたものの強さ、性質、時間的経過を認めることです。「感覚」と「知覚」のちがいを、「知覚」の定義から考えると、「感覚」はまだ「知覚」されていないもの、要素的なものであって、まだ、強さ、性質、時間経過などが確認されていないものということができます。感覚されたことはわかるけれど、その特徴がまだわからないレベルということです。この言い回しはどちらかというと哲学的で、生物学的ではありません。//

p224 概念(カテゴリー)が生成される
//側頭連合野の細胞の一部は「知覚」内容が変わっても「認知」内容が同じであれば活動する細胞、言い換えれば、「認知」を担うことのできる細胞があります。//
※顔を〔認知している〕選択的におぼえている(下の図)

記憶

a 持続時間による分類

三上章充『脳の教科書』講談社 2022年 p242~ 要約

1: 短期記憶
++ 保持していると考えられる部位
+++ 側頭連合野・頭頂連合野
++ 容量に限界がある、5~9個、平均7個
++ 干渉に弱い
++ 数十秒以上憶えておく場合はリハーサルが必要
++ 使用目的が達せられれば忘れる
xx 短期と長期の間に //中間的な記憶の段階もありそう//p244
xx 作業記憶……前頭連合野
2: 長期記憶
2-1: 宣言記憶……事実やエピソードを憶える
2-1-1: エピソード記憶…日時や場所と関連する
2-1-2: 意味記憶……日時や場所と無関係
2-2: 手続き記憶(非宣言記憶)……やり方やルール、体で憶える

記銘>保持>想起(または、再生・再認)
インターバル・ハーモニーと動的平衡 

長期記憶の保存場所

p264 ※短期記憶が電気活動で保持されるとした上で
//長期の記憶が保持されている間、電気活動が続くと考えるのは無理があります。//
とし、
p264
//多数の神経細胞の構成する神経回路の特性が変化し、その変化がのこされるからであると一般的に考えられています。//
※このことは「脳の可塑性」を意味する。
p264
//記憶の読み出しとは、その記憶経験によって変化した、回路に埋め込まれていた多数の神経細胞の活動パターンが再現することです。//
p264
//海馬や海馬周辺の大脳皮質、大脳辺縁系、視床背内側核などは、長期記憶がつくられる過程には関係しますが、長期記憶の保持には関係していません。//
p264
//長期記憶は、記憶すべき内容のちがいによって、脳のいろいろな場所に分散してたくわえられていると考えられている。//
p265
//記憶は、シナプスの可塑的変化(回路のつながり方の変化)によってたくわえられると考えられています。//
脳の可塑性

p292
//長期の記憶の形成、おそらくは大脳皮質における長期記憶の固定化にはレム睡眠が必要であることをしめしています。//

情動と感情

山田規畝子『壊れた脳も学習する』角川ソフィア文庫 2011年
p256 《解説 それでも生存する「知・情・意」 河村満》執筆部分
//思考中枢は上部構造の大脳新皮質、中でも大脳前方の前頭前野(ぜんとうぜんや)に存します。前頭前野の場所は前頭葉の前方部分であり、右脳にも左脳にもあります。前頭葉は大脳前方のほぼ2分の1を占める大きな部分です。ヒトの前頭前野は前頭葉の約半分の面積を占める大きなところであるがチンパンジーではそれほど大きくはなく、イヌやネコでは前頭前野の脳に占める割合がさらに小さくなります。//
p257
//前頭前野こそ意志の発現、未来への展望といった意の働きの発言にもっとも深くかかわっている。//

毛内拡『面白くて眠れなくなる脳科学』2022年
p182
//ヒトを人間たらしめる要素はなんでしょうか。動物と人間は何が違うのでしょうか。ヒトで発達している前頭前野の働きは間違いなく、人間らしさの一つといえます。//

p182 自己同一性
//ヒトでは、エピソード記憶を保持できる期間が、他の動物よりも長期間におよぶため、自己同一性が長期にわたって保持されます。子どもの頃の記憶から一貫して覚えており、果ては遠い未来のことまでを思い描くことができるのです。//

p184
//幼い子どもやお年寄り、依存症の患者では、この前頭前野働きが未発達だったり弱まったりしているために、抑制が効かなくなると考えています。//
※どういうことか?といえば、遡って……
p183
//前頭前野は、どちらかというとそういったドーパミン系から湧き上がってくる無限の欲求に対してブレーキをかける働きがあると考えられています。事実、ドーパミン神経系の回路は、前頭前野にも作用しますが、フィードバックしてくる回路もあることが知られています。//
※この抑制する機能が幼い子どもには未発達ということのようだ。

p184
//前頭前野は、理性に基づいてビシバシと白黒つけていくようなイメージがありますが、実際はそうではないということも示されています。理性は単に選択肢を増やすだけで、意志決定には関与できないのです。実際に、我々がエイヤと決定する時に働いているのは、前帯状皮質と呼ばれる共感や情動などにも関与する領域であるといわれています。この領域に障害を負ったある女性は、選択肢が増えるだけで、まったく何もできなくなってしまったといいます。//

p184
//情動と感情は明確に区別するべきであると思います。//
p184
//ガザニガ〔※〕によれば、感情とは「情動を脳で解釈した結果の産物」であるといいます。//
※マイケル・ガザニガ……アメリカの認知神経科学者
//つまり、体で感知した快や不快、恐怖などを言語化したものが感情として理解されるというのです。//
p185
//情報の大半は情動として処理されます。しかしそれは言語化されないので、意識にのぼることがありません。仮に後から意識にのぼったとしても、うまく言葉にすることができない感覚として認識されます。「生理的に無理」や「なんとなくいや」「本能的に危険」などあの感覚です。
 これらの処理がすべて済んだ後に、脳で言語化されて、ああ怖かったとか、悲しいとか感情として意識されることになるといいます。//
※これはマイナス事例だが、「なんだか、できそう」とやる気をおこさせるプラス効果もあるのでは? 結果、トライして初体験に結びつくとか。ヴィゴツキー「発達の最近接発達領域」の説明につかえそう。

p185
//情動は、ヒトだけでなく動物や昆虫などでも共通して見られる根源的な生理機能であることはすでに述べてきたとおりです。一方、感情は、言語によって解釈される必要があるという定義に則(のっと)れば、言語を持たない動物や昆虫には感情に相当するものは存在しないといえそうです。//
※ペットに癒されるとよく言われるが、愛玩動物が「感情」を表したと思われる体験をもつ人は多いだろう。それは、感情ではなく「情動」ということで納得しなければならないのか。
※ヒトだけに言語能力を認めるならば、言語生成の能力についてその生得性が気になる〓。

情動感情に加えて「感性」とは

p186
//〔人間は〕思ったほど合理的でもなく理不尽で、情に流され、ミスばかり犯すからこそ、それを克服しようという目標が立つと考えられます。逆説的ではありますが、むしろ不合理で感情的な部分こそが人間らしさだと思えます。//
「非合理」を受容する

p187
//私たちの意思決定は、情動が担っていることがわかっています。たとえどんなに熟練した裁判官でも、その過程では理詰めで考えはするものの、最終的には判決を下す際には、結局、情動をつかさどる脳部位が活性化することが確かめられているそうです。//
※えっ! 驚きです。

p187
//感性という言葉もあり、理性と感性というように対比されることが多々あります。人間だけが持つ特別な情動を感性と呼んでいいのではないかと思っています。//
p187
//嗅覚を除くすべての感覚を運ぶ神経束は、視床と呼ばれる部位で一度乗り換えをします。ここでは、どの情報を大脳皮質に送るかの取捨選択が行なわれており、それ以外はすべて情動の回路に送られ知覚されることなく処理されると考えられています。大脳皮質に送られた情報は、言語化され、解釈を受け、知覚されます。
 どの情報を大脳皮質に送るかという過程は”選択的注意“と呼ばれており、このフィルターが個人の感性を決めているのです。//
※〈見たいものだけを見る〉というヤツだな。リテラシーのむずかしさ。

見たいものだけを見る

三上章充『脳の教科書』講談社 2022年
p158
//脳は外の情報を取りこむとき、すべての情報を平等に取りこんでいるわけではありません。それぞれの人や動物が必要な、あるいは必要そうな情報を選択しています。そのような機能を心理学では「注意」と呼んでいます。このような場合の「注意」は個体(個人)レベルの機能ですが、細胞レベルではどうなっているのでしょうか?//
p162
//脳は個体(個人)のレベルだけでなく、細胞のレベルでも見たいものだけを選択的に見ているのです。//

脳とこころ 6つの関係 ── こころはどこで生起?

山鳥重『心は何でできているのか』角川書店 2011年 p85~90 要約
① こころと脳は独立 ……ヒポクラテス、プラトン
② 脳がこころを直接に作り出す
③ こころと脳は「対応して」働く
④ こころは脳の進化に伴って出現した独特の生命現象
⑤ こころは脳の随伴現象
⑥ こころと脳は同一の現象で、見方が違うだけ

脳と「こころ」は同時生起(ジャクソン & 山鳥重)

山鳥重『心は何でできているのか』角川書店 2011年

p62
//神経活動のありようと、こころのありようの異質性についての議論は、あまりに面倒なので、最近の神経科学では、特別問題されることはなくなっています。この分野では、ジャクソンのように、面倒ながらも、いちいち神経過程と心理過程を分けて考えることをせず、ブローカのように脳の一定領域の神経活動が一定の認知活動を実現する、と単純に考えるほうが一般的です。
 ですが、時代が現代になったからといって、脳とこころの難しい関係に解答が出たわけではないのです。この点について、脳科学者のこころという現象への対処の仕方に危惧をいだく学者もいます。
 わたしは、ジャクソンに倣い、脳とこころは同時生起〔※〕、という原理に基づき、こころの現象はこころの現象として、1つの閉じた世界として、その構造や働きを理解してゆかなければならない、と考えてきました。//
※一定領域の神経活動=大脳局在論
脳とこころは同時生起〔※〕……大脳局在論を排し、大脳局在論と見紛うほどに「こころ」は同時生起している、ということだろう。

ヒューリングズ・ジャクソン 1835~1911年

p54
//脳の一定部位は一定の心的能力を受け持つという、言ってみれば、かなり単純で機械論的な心理現象発生論には、当時から強い批判がありました。この点で、もっとも重要な学者はヒューリングズ・ジャクソンです。彼は、脳とこころの関係の考察に進化論を導入し、局在論と一線を画する立場をとりました。//
※ここで批判の対象となっている局在論(大脳局在論)の対象事例
①フランツ・ヨセフ・ガル(1758-1828年:骨相学)
②ポール・ブローカ(1824-1880年:「ブローカ野」に名を遺す)

p56
//彼〔ジャクソン〕はわれわれ神経内科医や精神科医の世界では非常に有名です。イギリスでは、イギリス神経学の父と讃えられていますが、世界の神経学の父と言っても、決して課題評価ではないと思います。//

ダーウィンの進化論

p54
//現在の多様な種は、すべて遠い遠い昔の、もっともっと構造の簡単だった祖先から連続し、時に少しずつの変更を加えながら、自然選択の洗礼を受けて、進化してきたものであって//
p54
//一度も断絶のないという原理は、彼以後の生物学者が繰り返し、繰り返し確認してきた動かぬ事実です。遺伝というメカニズムが連続性を保障してきたのです。//
p55
//わたしはわたしの生命のつながりを、30億年以上昔に存在していたであろうわたしの祖先的生命体から、一度も切らすことなく、現在に至ったのです。なんという壮大で、かつ美しい理論でしょうか。//
p55 引き続けて
//ヒトの中枢神経系も、人間の進化に合わせて、簡単な構造から、複雑な構造へと、少しずつ変更を加えつつ、今に至っているのです。
 こころも同じに違いありません。//

p55
//中枢神経系を持つ動物なら、どんな動物にもこころはある、と考えるほうが、人間のこころは特別だと考えるより、ずっと無理がありません。
 ただそのころ、主観的心理現象は、原初的動物では、きわめて痕跡的なものであり、われわれには捉えようがないだけです。//

福岡伸一「人間は考える〈管くだ〉である」

福岡伸一『動的平衡』木楽舎 2009年

p72
//そもそも、私たちの遠い遠い祖先は、現在のミミズやナメクジのような存在だった。彼らの姿こそが、私たちの原形なのである。彼らはまさに一本の管。口と肛門があり、その間を中空のチューブが貫いている。//

p68 そもそもは次を受けている。
//人間の消化管は、口、食道、胃、小腸、大腸、肛門と連なって、身体の中を通っているが、空間的には外部と繋がっている。それはチクワの穴のようなもの、つまり身体の中心を突き抜ける中空の管である。//

p68
//タンパク質が「文章」だとすれば、アミノ酸は文を構成する「アルファベット」に相当する。「I LOVE YOU」という文は、一文字ずつ、I、L、O、V……という具合に分解され、それまで持っていた情報をいったん失う。//
※うまいこと言うなあ、と感心する。分解されるまでは異物だから、絶対に体内へ侵入させない。
p74
//体内に入ったアミノ酸は血流に乗って全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなタンパク質に再合成され、新たな情報=意味をつむぎだす。つまり生命活動とは、アミノ酸というアルファベットによる不断のアナグラム=並べ替えであるといってもよい。//と続く。

p67
//「消化」とはいったい何を意味するのだろうか。肉や植物に含まれるタンパク質は、食いちぎられ、咀嚼され、消化管に送り込まれる。そこで消化酵素によって分解を受ける。タンパク質はその構成要素であるアミノ酸に分解される。//
※分解されたアミノ酸は、上述のようにして体内に取り込まれる。

p72 小見出し「人間は考える管である
//意外なことに、脳がないとはいえ、ミミズは、あるときは葉っぱのどちら側を咥(くわ)えれば巣穴に運び込むのに都合がいいのか、迷いつつ「考え」さえしているのである。
 これらの生命活動は、消化管に沿って分布する神経ネットワークによってコントロールされている。//
 さて、福岡伸一はミミズに問いかける。
//もし、彼らに「君の心はどこにあるの?」と訊ねることができ、その答えを何らかの方法で私たちが感知することができたとすれば、彼らはきっと自分の消化管を指すことだろう。
 優れた「脳」、つまり中枢神経系を持った私たちにも、消化管に沿って緻密な末梢神経系が存在している
 そして、脳で情報伝達に関わっている神経ペプチドと呼ばれるホルモンとほとんど同じものが、消化管の神経細胞でも使われていることが判明している。これらの神経ペプチドがいったいなぜこれほど多種類、大量に消化管近傍に存在するのか、そしてそれらが日々、いったい何をつかさどっているのかは未だによくわかっていないのである。//

続けて、さらに踏み込んでいる。p73
//第六感のことを英語では、ガット(gut=消化管)・フィーリングという。あるいは意志の力をガッツ(guts)と読んだりする。「ガッツがある」と言うときのガッツである。
 私たちは、もっぱら自分の思惟は脳にあり、脳がすべてをコントロールし、あらゆるリアルな感覚とバーチャルな幻想を作り出しているように思っているけれど、それは実証されたものではない。
 消化管神経回路網をリトル・ブレインと呼ぶ学者もいる。しかし、それは脳と比べても全然リトルではないほど大がかりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると、この管で考えているのかもしれないのである。
 極言すれば、私たちは一度、かつてのダーウィンがそうしたように、ミミズのあり方をじっくりと観察したほうがいい。そしてもう少し謙虚になるべきなのだ。私たちは、たとえ進化の歴史が何億年経過しようとも、中空の管でしかないのだから。//

養老孟司『子どもが心配』PHP新書 2022年
p153 ※養老孟司と小泉秀明の対話で、小泉の発言。
//「人間はもともと、入り口が口で、出口が肛門の一本の管、ただのチューブだった」という三木先生の論理は印象的でした。
 管の外側を構成しているのが皮膚、筋肉、神経などの「動物器官」で、管の内側は腸管や循環器、腎泌尿器、生殖器などの「植物器官」だという。その通りだと感動したことを覚えています。//

こころは、情 / 知 / 意 の3層からなる動的構造体(山鳥重)

山鳥重『心は何でできているのか』角川書店 2011年

p98
//「山路を登りながら、こう考えた。に働けば角が立つ。に棹させば流される。地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」//
※夏目漱石『草枕』の冒頭そのままだが、山鳥重の引用から再引用した。赤字で示した「//が「こころ」の本体とするのが山鳥説。ただし、順序がある。情→知(智)→意の順で「こころ」が成立するとする。

(1) 「心像(しんぞう)」というカタチ

 「こころ」は見えない。視覚で捉えられない。
 「こころ」は、脳の働きで生成されることを否定しない。しかし、シナプスなど中枢神経系とは別に “独立している” が山鳥説で、心像と命名し、(見えないが)カタチとして捉えることで自説を組み立てている。
 心像については、《「みる」ことで「わかる」ということ》という拙文を試みた。

p210
//こころは具体的な形と構造を持つ生物体と違い、その非物理化学的な姿を「今・ここ」という時間でしか展開できないことです。
 生物体という形式に具現化されている生命現象は、長い時間の中で、形を現し、構造を現し、その姿を実現しています。
 こころはそうはゆかないのです。//

p201 図のキャプション。
//図の下方ほど濃く、広くしてあるのは、気づき経験(意識)がよりあいまいで、かつ、より瀰漫性であることを示す。先端が尖っていて、かつ白くしてあるのは、意識が意図へ収斂するにつれて、心像経験がより精緻に、かつより明晰になってゆくことを表す。意識過程がくらやみから明るみへの不断の移行であることを示す。//
情知意の3層に「意識」を加えたときは4層と表現している。「意識」を漢字1字で表現するときは「識」としている。つまり、識→情→知→意。

p213 エピローグ〔あとがき〕にて
//わたし〔山鳥重〕が主張したかったことは、こころは、初め情であり、情が出現し、知が出現して意が出現する、というふうに、情・知・意が階層をなしている。つまり、情・知・意というのはこころの水準を表している、ということです。//

わたし(山田利行)の考え

 新生児におけるあかちゃんは、〈情→知〉からスタートすると思えない。我が思うまま(本能としての欲求)ということで、いきなり行動としての「意」が初めではないだろうか。
 「意」→その次は、学習を重ねることで「知」→感情らしきものが芽生えるのは、しばらく先のように思う。
 まとめると、「意」>「知」>「…」(「情」の存在なし)。
 「情」が働き始めるのは幼児前期つまり、2歳半ごろからではないだろうか。そして、「情」が生じ始めることで、山鳥重がいうところのやがて、情→知→意 となり、こころが始動する。

 「知」の学習/獲得は、「《 3つの体験 》& ハートスケール」に対応すると考えている。

(2) こころは、情/知/意の3層からなる動的構造体

p200
//まとめますと、こころは3層に積みあがっている1つの動的構造体だ、というのがわたし〔山鳥重〕の考えです。
 動的、というのは、常に変化し、常に動いているということです。構造体というのは、複数の要素が組み合わさって、安定したまとまりを作っている、というぐらいの意味です。//
※次に続く。

p200 ◆(1)
//まず、、すなわち感情が創発し、感情を土壌に、すなわち心像群が創発し、この心像群を秩序化する働きとして意志が出現します。情→知→意、情→知→意と展開し続け、少しも休まない働き、それがこころです。そして、そのこころの情→知→意という展開の舞台を準備するのが覚醒意識〔※〕です。意識が働き出すと、感情が経験され始めます。そこで、この覚性意識をこころ構造に加えますと、こころは4層構造になります。//
覚醒意識……「睡眠意識」(眠り)と対比関係にある。
◆(2) 三上章光『脳の教科書』2022年 p117
//心理学では、感覚から認知までの過程を、感覚、知覚、認知の3段階に分けます。感覚は、身体の内外から受けた刺激を感じとるはたらきです。知覚は、感覚されたものの強さ、性質、時間的経過を認めることです。認知は、知覚されたものが何であるかを認めることです。外からの情報は、順を追って処理され、最終的には行動選択に使われ、外の世界へのはたらきかけ、運動出力にいたります。//
◆(1)(2)は、似ている。

p200
//睡眠意識では、覚醒意識のような全体的な枠づけが失われ、したがって全体的な枠づけ活動の延長である、心像群の秩序化の働き(=意志)も失われています。睡眠意識においても、既に述べましたように〔※〕ある程度の感情・心像活動は生じているのですが、覚醒時、記憶に残るほどの強い活動、強い秩序性を持たないのだろうと思われます。弱く、かつ不安定なこころ経験なのです。//
※p191//普通の眠りにおいても、時間的に引き延ばされ、かつ明瞭度を落とした、実にあいまいな状態においてではあるのですが、何らかの思いをゆっくり、うっすらと経験し続けているのではないかということです。//

p201 小見出し//中枢神経系と、「識・情・知・意」// 識=意識
p202 //こころは、これら中枢神経系諸領域の統合活動の結果出現する現象であり、決して各領域がそれぞれの機能を「分担」して、それぞれ別々に意識、感情、心像、意志などを実現しているのではない〔※〕のです。1つのネットワーク〔※〕に次のネットワークが組み込まれ、さらに次のネットワークが組み込まれる、という仕組みです。並列構造でなく、階層構造、あるいは進化構造なのです。//
※ネットワーク=nw、脳幹nw→辺縁葉nw→感覚脳nw(頭頂葉・側頭葉・後頭葉)→前頭葉nw(上図で、下方から上方へ)
※分担を否定……失語症病態による。こころはネットワークが実現させている。

p172
//意志は感情という瀰漫(びまん)性のこころの働きからは出現せず、思考、つまり心像というカタチあるものを操作できるようになって初めて出現するこころの働きです。//
※この山鳥重仮説を書き換えると……>>>
 意志というこころの働きは、ありふれた感情から出現するのではなく、「心像というカタチ」を操作できるようになって初めて出現する。

(3) 反射と本能 ※リンク参照

(4) 乳幼児の こころ と その発達過程

p172
//生まれたときの、赤ちゃんの動きは、すべて全身が参加した動きです。つまり、手足がかたまりとして動きます。
 このかたまり的な動きは、成長するにつれて、手や足や口の個別的な動きに分化してゆきます。//
※次に続く。

p172 意志(こころ)の生成
//この運動の分化に対応して、こころには、各身体部分の動きを表す観念性心像が作り出されてゆきます。具体的には、運動覚性感情から創発される運動覚性心像と、視覚性感情から創出される身体各部の視覚性心像が1つに収斂して、からだの各部の動きの経験である超知覚性心像(=観念性心像=運動心像)が生成します。意志はこの運動心像の動きを媒介に、実際の筋運動を抑制するのです。//

p207
//発達心理学者のハインツ・ウェルナー(Heinz Werner:1890~1964年)は、子供の精神発達について、心理事象は、知覚にしろ、概念化にしろ、意図的行為にしろ、すべては展開(unfolding=つぼみが開いていくような、そのような過程)の過程であり、段階を経て完成すると主張しています。この展開過程は、たとえば知覚においては一瞬の間に完成するわけですが、すべての心理現象もまったく同じで、1秒、あるいは1秒よりもっと短い時間で完成する、と主張しています。
 そして、その一瞬の展開過程は、子供が成長の過程でゆっくり、時間をかけて発達させてきた心理過程の、その時、その場における短時間での反復(再現)であるとも述べています。//
p207
//ウェルナーによると、子供のこころは、おおよそ次のような原理に基づいて発達します。//
//①融合から分離へ、②瀰漫から分節へ、③不明確から明確へ、④非柔軟から柔軟へ、そして、⑤不安定から安定へと発達します。//
p208
//こころは全体的経験がどんどん分化してゆく過程なのです。あるいは、部分がどんどん増えてゆき、これらの部分がどんどん全体に組み込まれてゆく過程です。こうして、こころの階層性が出現してきます。//
p208
//この心理的経験の発達は、同じ経験が生じたときには、一瞬のうちにその発達の歴史を繰り返すという主張でもあります。
 わたし〔山鳥重〕はこのウェルナーの考えにまったく同感です。//

(5) 自説との対応

いつから「おとな」で、遊びを考える。
《 3つの体験 》& ハートスケール
「こたえ」は層をなしている
いのち の かたち for child …… かたち:心像に対応するか?

2023.2.11記す

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