||||| 声とからだ》竹内敏晴がいう、サリバン先生の”奇跡” |||

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〈サリバンのこころ〉を、
ヘレン・ケラーがとらえたから

竹内敏晴「子どものことばとからだ」
:『子どもの発見』光村図書 1985年 所収
p157 節タイトル/ /『奇跡の人』// p157~164 以下、全文。省略なし。
//ヘレン・ケラーがアン・サリバンという先生に会って、初めて言葉が使えるようになって自立していく話は、奇跡の人のタイトルで映画にもなりました。世界中の賞を独占するほどの感動を巻き起こした名画ですが、これを見ると、ところどころで涙が出るにもかかわらず、私にはムカついてくるところがあります。//
p157
//芝居では三幕ものですが、二幕目で見ていられなくなって帰ってしまったのです。ヘレン・ケラーは健常児として生まれ、1歳9ヶ月で高熱を出す。それが治ったときには、目も耳も駄目になり、もちろんことばは喋れなくなりました。親たちはあちこちの医者にかけて苦労しましたが、どうにもなりませんでした。ヘレンは感受性がよく、また非常にエネルギッシュでした。彼女が9歳のときに、パーキンス盲学校の卒業生で21歳のアン・サリバンという女の人が家庭教師にくるわけです。卒業したばかりですから、サリバンには教育の経験が皆無です。ケラー家に来た翌朝、食事のときに、ヘレンは手づかみで食べ始めます。ヘレンの兄は自分の皿に手を突っ込まれまいと、ヘレンの来る前に彼女の好きそうなものを取って、ヘレンの手に載せてやる。ヘレンはサリバンの皿にも手を突っ込みます。サリバンがその手をつかまえて止めさせると、ヘレンは怒って暴れ始める。父親が「いつままでそうやってきたのだから、手を離してやってくれ」と頼む。そこでサリバンは、猛然と怒り出すわけです。
「あなた方はヘレンのことをペットの犬や猫みたいに扱っている。人間として向かってないじゃないか」
 サリバンは、ヘレンにスプーンで食べることを教え込もうとする。ヘレンは嫌がって暴れる。親父さんたちはいろいろ言っては庇うけれども、サリバンは部屋から皆を追い出して、二人で閉じ籠もる。ヘレンが逃げ出そうとすると、鍵をかけてしまう。嫌がるヘレンを捕まえて椅子に坐らせ、テーブルの下にくぐって逃げ出すのを待ち構えては引きずってまた坐らせる。今度は机をよじのぼって逃げる。また引きずり戻す。スプーンを持たされると、ヘレンはほうり投げる。サリバンはヘレンをスプーンのところまで引きずっていってそれを握らせ、その拳の上から握って戻ってきて、皿の料理をすくってヘレンの口まで力づくで持っていく。ヘレンはもちろん受け付けない。おしまいには、サリバンは水をバッと顔にかける。ヘレンが息ができずに口を開けた隙に、料理を放り込む。ヘレンは怒って、それをサリバンの顔に吐き出す。こういう力づくの乱闘が延々と何時間も続く。昼を過ぎてから、二人がへとへとになって出てくる。外で待ちつくしていたお母さんがびっくりして、「どうしたんです?」と訊くと、「ヘレンは自分のお皿で食べました。スプーンは自分のお皿で食べました。スプーンを使って。そして、ナプキンを畳みました」と、サリバンが答える。お母さんは仰天し、ヘレンはお母さんにつかまって泣いている。階段をへとへとになったサリバンが上がっていくところで、このシーンは終わりになります。
 少し話の主題から外れるのですが、私は取っ組み合いをやっているところを見ると、吐きそうになるのです。//
p159
//大抵の人がこの場面に感動したというのですが、私はやり切れない。
「親たちはヘレンをペットの犬のように扱っている」とサリバンが怒るのはよくわかります。しかし、「じゃあ、サリバンさん。あんたがやっていることはなんやね? 犬の調教とどこが違うんや」といいたくなる。//
p159
//サリバンという人は、目がほとんど見えないのですね。9回も手術して、やっと見えるようになった。濃いサングラスをいつもかけていないと、光で目を痛める。それに、パーキンス盲学校に入ってきたときには、教師のいうことをまるで聞かない。年中喧嘩していたような、気が強くてエネルギッシュな娘だった。そんな人がヘレンの気持ちをわからないはずはないと思うのです。にもかかわらず、どうしてこんな力づくでのやり方をしたのか。//
p159
//私がこの芝居を書き直すときに調べて初めて気がついたのですが、サリバンの手紙にはこのあとがあるのです。「自分の部屋に戻って、わたしは泣けるだけ泣きました」とあります。映画のへとへとになったサリバンが階段を上がっていく姿は、辛いことを成し遂げた英雄が凱旋していくように見えます。さすがにほんとのサリバンはそうではなかった。自分の中でもさまざまな矛盾を抱えつつ、「いまそういうことをしていたのでは、まっとうな人間になれないんだ」と、必死になってヘレンに向かい合っていただけなのでしょう。教師たちはあの映画を見て、〈あれほどの苦労をしてまで、教えるべきことを教えた〉その努力の凄まじさに感動するようですが、私にはとうていそう思えません。どうしたらいいかわからないで体当たりしていたサリバンが心に沁みるのです。//
p160
//私がいちばん困ったのは、最後のシーンでした。さっき述べたような事件のあとでは、ヘレンはサリバンを徹底的に拒否する。同じ室内にいるなと感じただけで逃げていってしまいます。それまでは女中の手を借りていた着替えなどでも、触らせなくなります。お母さん以外には、誰にも触らせない。考え抜いた揚句、サリバンはヘレンと二人で小屋に閉じ籠もります。ヘレンはその2週間の間に、ナプキンを着けて、スプーンで食事するようになる。刺繍もできるようになり、指文字もいくつか習う。それを見て親たちは非常に喜んで、「まだ早過ぎる」というサリバンの反対を押し切って、母家に連れて帰ります。それで歓迎の晩餐会になるわけです。いよいよ食べるときになると、ヘレンはおもむろにナプキンを外して捨ててしまう。スプーンを持つと、床に叩きつける。そして、いきなり手づかみで食べ始めるのです。2週間に教わったことは全部投げ捨てる。全くもとに戻って、やりたいようにやり始めるわけです。そして、サリバンの皿にも手を突っ込む。当然、サリバンはその手を捕まえる。ヘレンは怒って暴れる。最初の朝と全く同じことが始まるわけです。
「今晩だけは特別だから勝手にさせてやってくれ」と父親。
「特別だからこそやらなければいけないのだ」とサリバン。また取っ組み合いが始まります。たまたま手に当たった水差しをヘレンが振り上げる。水が流れ出ます。サリバンはヘレンをそのまま外へ引きずり出すのです。映画では、「どこへ連れていくのです?」と父親がいうと、「もう一度、水をいっぱいにさせます」とサリバンはヘレンをポンプ場へと引きずっていきます。そして、水差しをつかんだヘレンの左の手を水の出るところにあてさせます。サリバンはヘレンの右手に指文字で記しながら、ポンプの柄を押して水を出す。ヘレンの左手に水がかかり、流れる冷たいものを感じているうちにはっと何かを感じるのです。ヘレンは1歳9ヶ月まで健常児で、ことばが出始めていました。「ウォーター」を「ウォー」くらいにはいえたのです。そのような記憶、冷たさ、指文字が、どこかでふっと一つになってきた。〈そうか。この手に当たっているものは、ウォーターと呼ばれるものなんだな〉ということが、ヘレンの中に突然わかってくるわけです。そして、「ウォー」と言い始める。サリバンはびっくりして、「そうよ、そうよ」といいながら、また指文字で教える。「これがウォーターなら、これはなんだ?」「これはポンプだ」「これはなんだ?」「これはグラウンドだ」「これはなんだ?」「これはマザーだ」となっていくのです。確かに感動的なラストシーンです。しかし私は、「こんなアホなことがあってたまるか」と思ってしまうのです。//
p161
//いまのいままで「このセンコー、叩き殺してやりたい」と喧嘩していた真っ最中に、誰が黙って水差しに水を汲んでいるものか。叩きつけてしまうでしょう。どうしても、これはコシラエモノのオシバイとしか考えられない。
 気がついて読み直すと、サリバンの手紙では次のようになっていました。
 サリバンがヘレンの手をつかんで喧嘩になる。父親が止める。そこで手紙は一度切れています。そして、「その晩、ヘレンはわたしの部屋に来ませんでした」
 次の日の朝、
「わたしが食堂に下りていくと、ヘレンはもう坐っていました。教えられたようにではなく、自分で工夫して襟元にナプキンを留めて。わたしが『それではいけない』といわなかったので、ヘレンは嬉しそうでした」
「食事が終わって、わたしが外へ出ると」とありますから、たぶんヘレンはスプーンで食べたのでしょう。そして、「ヘレンのほうからわたしに触りにきました。わたしは、昨日の仲直りをしようとしているのかと思って、大変驚きました」
 その日から「ウォーター」の場面が起こるまで、1週間か10日あります。その間に、この二人は本当に仲よくなっています。野外で一緒に草花の匂いを嗅いだり、鳥の巣の中へ手を突っ込んで雛に触ってびっくりしたり、ほかの友達と手をつないで遊んだりしています。そのような期間のあとで、ある日、水を汲んでいたとき、「ウォーター!」が起こるのです。//
p163
//これならわかる、と私は思いました。2週間の間サリバンが一所懸命に教えたのは、ヘレンにとって結局は強制にすぎない。ヘレンは家に帰った途端、それを全部投げ捨ててしまう。これがつまり、いまの学校の子どもたちがやっていることです。本当にやりたくないことについて、「そんなのやりたくねえよ!」といっているだけです。
 しかし一度徹底的に拒絶したあとで、ヘレンは教えられたことの文化的というか人間としての意味を自分で捉え直して、自分のやり方で身につけている。ナプキンは文字通り「身につけた」そのシンポルです。教えられた通りにはやっていない。それに対してサリバンは、「それでいいのよ」と受け入れている並の教師だったら、こうはいきますまい。「なぜ先生のいう通りにしないのですか!」となる。それで決定的におしまいです。ヘレンは自分の選択が教師に受け入れられたのを知って、初めてほんとに信頼する。十日近く息の合った勉強をして初めて、「ウォーター」が起こるのです。//
p163
//私の耳が聞こえるようになったのは17歳くらいですが、少しずつ発音できるようになっても、最初はどのようなことばを選んだらよいのかわかりませんでした。ことばが見つかってくるということは、全く関係のないバラバラなことがすっと一つに結晶してくるということで、それは深い平静な集中の中でしか起こりません。私の体験にこだわりかぎるかもしれませんが、感情が揺れ動いているときには不可能です。作者は、水の冷たさがヘレンになにかをおもいおこさせた時、「そこで奇跡が起る」とトガキに書いています。「ヘレンが、ものには名前があることを知った」「理性が宿った」瞬間であると。たしかにそれは奇跡といっていいすばらしい出来事ですが、しかしサリバンにとっては違うのではないかと私は思うのです。//
p164
//「奇跡が起こりました」とサリバンが書き出している手紙があります。それは「ウォーター!」よりずっと前、二人が小屋で一緒に暮らした頃のことです。ヘレンはサリバンの匂いがしただけで逃げてしまうので、サリバンに触らせもしなかったのが、いろいろな苦労の末、ある日、はじめてサリバンの膝の上に乗って、サリバンのキスを受け入れるようになる「まだお返しはしませんが」とサリバンは書いています。この僅か何十秒かヘレンがサリバンの膝に乗ったその日に、サリバンは「奇跡が起こりました」と書いているのです。
 それでは、「ウォーター!」のときは、なんと書いているか。「ヘレンの人生における重大な第二歩が始まったのです」とあります。サリバンにとっては、手のつけようもなかった相手にやっと触れることができた。二人の間に人と人とのつながりができたこと、それが「奇跡」だったのです。それが成り立ってからは、「ウォーター」はもういつかは起こるはずのことだったに違いありません。//
※以上、全文。おわり。

2023.11.2記す

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