クリストフ・コッホ『意識をめぐる冒険』岩波書店 2014年
P21~p24
//兄と弟と私、男ばかりの三人兄弟は、カトリックの伝統のなかで、幸せに育てられた。伝統的なカトリック教徒であるとはいいつつも、家のなかでは、自然淘汰による進化論などの科学的な説明も普通にされるように雰囲気があった。少年時代の私は、ミサの侍者を務め、祈りの言葉をラテン語で諳(そら)んじ、グレゴリオ聖歌や、オルランド・デ・ラッスス、バッハ、ビバルディ、ハイドン、モーツァルト、ブラームス、ブルックナーによるミサ曲、キリスト受難曲、鎮魂曲を聞いて育った。夏休みになると、家族総出で数え切れないほどの美術館、古城、バロック様式やロココ様式の教会を見学して回った。両親と兄は、教会の天井画、ステンドグラスのはめ込まれた窓、聖人像、さらには宗教的なイメージを描いたフレスコ画に感嘆し、母は家族全員のために、一つひとつの絵画や彫刻の詳しい歴史を読みあげてくれた。当時の私は、この半ば強制的な芸術の詰め込み教育を耐え難いほど退屈に感じていた。今でも、母の書棚に並ぶ三巻本のアートガイドの背表紙を見ると、当時の気分を思い出してぞっとする。けれども、ローマ時代にさかのぼる歴史をもつ祈りの言葉の不思議な抑揚や、数多くの偉大な作曲家たちの作りあげた音楽は、宗教色の有無に関係なく気に入った。
私が当時通っていた教会は、二千年を越えてローマとエルサレムにつながる由緒ある教会だった。その教会は、神学の研究を熱心におこなっており、全世界に支部を持ち、文化の香りに満ち、道徳的に非の打ちどころのない組織だった。その教義は、人の生きる道に関して私を納得させる、伝統に裏打ちされた安心感を与える説明であった。教義のもたらす安心感はとても強く、私は自分の子どもたちにも同じ教育を受けさせた。妻と私は、子どもたちをカトリック信仰のもとで育て、洗礼を施し、食前には全員で祈りを捧げ、日曜日には揃って教会へ出かけ、洗礼後の初聖体拝領式へも連れていった。
しかし私は、年月が経過するにつれて、徐々に教会の教えに違和感を抱くようになっていった。教会の伝統的な教えは、科学的な世界観と合わなかった。私は、両親やイエズス会の教師や、キリスト教を信じる一般の教師たちから彼らの信じる価値観を与えられた。しかし一方で、私は本のページのあいだに、学校での授業のなかに、そして実験室のなかに、教会では聞くことのない、科学という衝撃的なドラムのリズムを感じた。そのうち私は、キリスト教と科学、その二つの異なった世界の成り立ちに関する見方が生み出す緊張感のためか、現実の世界に対して分裂した見方をとるようになっていった。ひとたびミサが終われば、キリスト教の原罪、犠牲、魂の救済、来世の存在をめぐる疑問は完全に頭からなくなった。そして、世界の成り立ち、世界で生活を営む人々、さらには自分自身について、純粋に自然界の言葉で合理的に考えるようになった。日曜日の教会で教えられる世界観と、平日に自分が好んで貪欲に吸収していく科学的知識をもとにした世界観が交わることはなかった。教会は、「神の創った世界と、人間たちのために犠牲となった神の息子」という文脈のなかにちっぽけな私の命を置き、生きることの意味を教えてくれた。一方で科学は、私自身が存在する現実の宇宙がどのような仕組みになっているのか、そしてこの宇宙はどこからどのようにして生まれてきたのかについて説明してくれた。
二つのまったく異なる解釈を都合よく、その場その場で使い分けるなんていう態度は、精神的に不快なものだし、そもそも納得がいかない。私は、この二つの説明の矛盾を解消したくて仕方がなかった。しかし結局、このイラ立ちは解消されることなく、その後数十年の間、ズルズルと心に引きずることになった。それでも、二つの解釈の間で悩んでいたときもずっと、私のなかでは、世界の現実は一つだけしかないということ、そして現実世界の仕組みは科学によってどんどん明らかになってきたということについては強い確信があった。人類は、理性の力、すなわち科学によって本当の世界の仕組みを深く理解することができるはずだ。宗教が私たちに与えてくれるような、世界の表面的な理解に留まり続ける必要はないし、そのように運命づけられているわけでもない。我々は、ものごとを合理的に考えることができる。そして事物について考え、研究する時間が積み重なれば、理解はより深まっていく。
私が、この宗教と科学の矛盾する世界観に何とか折り合いをつけられるようになったのは、ようやく最近のことだ。そして緩やかにではあるが確実に、人のかたちをした超越的存在としての神に対する信仰を失っていった。そのような神が自分を見守ってくれているとか、ときには私がすることに干渉してくるなどといったことは、もう信じていない。世界が終わりを迎えるときに、神が私の魂を永遠に続くように蘇らせてくれるなどという信仰も捨てた。私が幼いころに抱いていたこのような信仰のたぐいは失ってしまった。一方で、私のなかに根強く残りつづけるある種の信仰は変わることがない。この世界に存在するものすべては、現在あるべき姿になるべくして存在するのだ、という信仰だ。この宇宙の構造には何らかの「意味」があるはずだ、ということについては、いささかも疑っていない。//
p10
//本書のタイトルである「告白」の一つだ[訳者注:原書の英語での副題は「confessions of a romantic reductionist(ロマンティックな還元主義科学者の告白)」である]。そのころ、私自身の奥深くで無意識のうちに抑制されていた自己は、人生の意味に満ちあふれていて素晴らしいものだ、と強く直感的に信じていた。この強い思いこそが、私を意識をめぐる冒険へと導いた。//
※原書名:CONSCIOUSNESS 意識
p342
//信仰心を失ってしまったことは悲しいことだ。じんわりと温かくなつかしい記憶に満たされた、幼いころの家庭の心地よさを永遠に手放してしまったようなものだ。私は今でも、高いアーチの形の天井を備えた大聖堂に足を踏み入れるときや、バッハの「マタイ受難曲」を耳にするときには敬虔な気持ちになる。ミサの荘厳さが引き起こす感情の高ぶりを抑えることもできない。しかし、信仰を捨てることは私の成長の過程において、そして成熟して世界をありのままに見るためには避けて通りがたいものだったのだ。//
一冊の学術書(啓蒙書ではあるが)について、その動機をここまで詳述していることに驚いた。感動でもある。そして、筆者クリストフ・コッホの誠実さが届く思いだ。
カトリック信者は、宗教心が厳格であるらしい。文化の違うわたしが推し量れることに限りある。それだけに、宗教と信仰の関係、科学者と宗教信仰者の関係を理解するために貴重な記述である。
2024.10.25記す