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重傷の度合いを意識レベルで確かめる、「名前を言えますか?」。トリアージという用語をご存じの方はいるでしょう。訊ねている救急隊員は、”無意識”で問うている。
1年に1,2回、わたしは山道で思いっきり、つまずいてこける。高齢になると踏み出すときの蹴上げが低いからだ。気をつけなければと思うが、慣れた山道は”無意識”で歩いているのだ。意識しながら歩くのは不自然なので、安全歩行のためには「ゆっくり」進むことだ(それでもうっかり、「意識していないから」つまずく)。
業務でも家事でも日常の行為はほぼ”無意識”だ。無意識は意識できない。無意識をあえて意識しようとしたら、もはや無意識でなくなる。
歩きながら考え事をしている。どこかに向かうために歩く。目的に着いたのちのことも考えているから、計画を見積もり、時間を気にする(まにあうか、余裕があるか、など)。
二つの「こと」を同時に意識するのはむずかしい。意識行為は1件に限られるが、無意識は平行して数多く行える。無意識を意識してしまうと、思い浮かんだ意識行為が停止してしまう。
クリストフ・コッホ『意識をめぐる冒険』岩波書店 2014年
p159
//学習がひとたび完了した後に改めて細部に注意を向けると、獲得済みのスキルの動きが悪くなることがある。//
p160
//熟練したスキルに注意を向けるとパフォーマンスが悪くなることがあるのは以前から広く知られていた//
ふだんから練習を積み、訓練で鍛え、これらを”無意識”で自動制御できるようにしておき、本番では「必要な意識」に集中できるかということだろう。
クルマは”無意識”で運転している。だから、安全運転が可能になる。免許取り立てが危ないのは意識してしまうから。
自意識過剰という悪口がある。意識イコール自意識とすれば、”過剰”という形容はおかしい。意識(自意識)発揮場面で実行可能は1件に限られ、過剰にはならない。であるのに、悪口がささやかれるのか。自己中心の「意識」を、連続して繰り返せば、それで「過剰」ということになるかもしれない。そこはいろいろと事情がからむのであろう。
自己を支配しているのは”無意識”である。無意識過剰、大歓迎である。
p153(前掲書)
//車の運転も、コンピューターのキーボードを叩くのも、携帯電話からメールを送るのも同じだ。バスケットボールの試合をするのも、夕食後に皿を洗うのも、そのほかさまざまなことを請け負っているのが、この自動制御システムだ。フランシス・クリックと私は、このような無意識のメカニズムを「ゾンビ・エージェント」と呼んだ。個々のゾンビ・エージェントは、筋肉と神経のあいだの滑らかで速やかな相互作用を操っている。ゾンビ・エージェントが集まって、あらゆる技能に熟練したゾンビ軍団「ゾンビ・システム」が構成されている。ゾンビ・システムは、私たちの日々の生活を支えている。//
※フランシス・クリック……かの有名な「DNAの二重らせん構造」の発見者。
2024.11.1記す