感動を共有する、とは? ──共有と共感、そして寄り添うこと ── 擬育17

 倉本聰の脚本ドラマ「やすらぎの刻(とき)」を昼にみている。そこで出会ったセリフ。「女に本気で恋したことがあるか!」に続けて「感動を(女と)共有したか?」と爺さん同士の会話。「やすらぎ」は〈やすらぎの郷(さと)〉のことで余生を送る人たちのホームであり、そこで織りなす人間模様が描かれている。戦時下の暮らし体験をまじえ、倉本聰の渾身をみる思いがする。
 ドラマのこれからも楽しみにしているが、「感動」は共有できない──と、私は言いたい。「言語(言葉・会話)で説明できない」から感動する。説明できる言葉をもってないから、感動という情動が内的に発生する。感動を体験したときから、その感動をなんとか説明してみようという内的な言語活動が始まる。過去の似た体験で説明しようとする。または、新たに言葉を創造してみようとする。
 このことは、個人の一人にのみ特定して発生することで、これを共有することはできない。もし、共有があるとすれば、感動が発生している個人Aに別の個人Bが共有ではなく「共感」していると考えられる。
 子が、あることで驚く。これを感動している状態とすれば、おとな(親)が共感することで一体感を生む。誰かの助けではなく、自分ひとりで達成できたとき「見て!」と近くにいるおとなに認めて欲しい。ほめて欲しいのでなく、喜びを共有して欲しいと表現してよいと思うが、その実現のためにおとなが共感できる必要がある。
 共感とは、思いやり、「(他者に自分を)ゆずる」=寄り添うというやさしさの情動であり、「感動」への尊重と思う。感動によって、言葉が内的に発生するので過剰な言葉かけは無用だ。
 ところで、映画鑑賞で感動をしばしば体験する。映画はテーマがあり、そのテーマを共有する可能性がある。そして、テーマに同調したとき、同伴者がいれば、感動を共有したと言えるかもしれない。とはいえ、その感動のしかたは人それぞれであり、共有ではなくやはり共感がふさわしいと思う。

(参考)
《3つの体験》& ハートスケール

2019.10.1記す