わが子には、たくさんの体験をさせたいと思う。小学生も高学年であれば、どこかに出かけたり、体験プログラムなどに参加させてみようかと思う。幼児では、連れ出して一緒に遊んでみようと思う。「体験」はさまざまな場面で多用されるが、本稿では、体験を《3つ》に定義して提案する。

《 3つの体験 》
1.〈 感動する体験 〉
+ 内言
+ 初めの1回のみ
+ 自分ひとりでは実現しない

2.〈 繰り返す体験 〉
+ 外言
+ ひとりで なし得る
3.〈 食べる体験 〉
+ 生活体験 / すべての体験
+ 約束された すこやかな暮らし
言葉にならないから、感動する
映画をみて「よかったあ~」と感動したとき、それ以上の言葉にならないものだ。一緒にみている仲間がいるとき、場内が明るくなると、言葉を交わすのが億劫になる。
読書感想文の課題では、感動したことを書けばよいかなと思ったりする。しかし、感動したときはやはり「よかったあ~」と思うばかりで、書き言葉はなかなかでてこないものだ。
自身の体験を超えるから感動するわけだ。過去の体験を説明する言葉は出てくるが、初めての体験を言葉で説明するのは容易でない。だから、感動するのだ。つまり、言葉にならないから感動するともいえる。
映画をみたあとの帰り道、本を読んでしばらく時間をおけば、心の整理ができてくると言葉が出てくるだろう。内にひそめた言葉=「内言」が感動とともに発生し、やがて「外言」として、自身で捉えられるようになる。
◇

子どもの場合を考えてみよう。ぶらんこはいつから乗れるようになるのだろう。
早い子どもは、2歳を待たずして乗れるようになる。しかし、初めは自分で乗るのではない。乗せてもらうのだ。「乗る」が先で「降りる」が後だ。
初めて乗ったそのとき、子どもは感動するのだろうか。
乗りたいと思い、近くのおとなに頼み、乗せてもらう。うれしいという気持ちがわくかもしれないし、うれしい気持ちはなく、ぶらんこ座面の感触や揺れる感触をさぐるほうが先行するかもしれない。果たして「感動」という言葉対応はふさわしいのだろうか。
あかちゃんがお母さんのおなかから出たその瞬間、あかちゃん自身にとって「感動」だろうか。「体験」といえるのだろうか。感動や体験といえるものはいつから始まるのだろう。ぶらんこに初めて乗ったそのときを「体験」としてよいと思うし、感動またはそれに類するものが生じるのではと思う。
繰り返す体験の始まり
一度でも「乗せてもらう」と、それからはぶらんこを目にしたとき、再び乗りたいとせがむようになる。これは、〈繰り返す体験〉を意味する。つまり、繰り返す前の初回があるわけだ。したがって、2歳児の感動とはどういうものかはわからないが、〈感動する体験〉をしていることになる。
幼児を含めて子どもを海辺に連れて行くと、渚に近づく。渚まで近づいて、ゆるされれば、足をつけたり、水をさわる。やがて「冷たい!」などの声が聞こえてくる。よく観察してほしい。足をつけたその瞬間、おとなでも同様だが、冷たいと発声するより前、言葉にならない感触を感じるはずだ。そのあとに、既知の言葉「冷たい!」が出てくる。冷たいが適切でないと思えば「気持ちいい」と言ったり、人それぞれになるだろう。つまり、初回は、言葉にならない。内言が発生し、外言を生じさせる。波が寄せては引く繰り返しを行うので、自身が動かずとも〈繰り返す体験〉がその場で起きる。〈繰り返す体験〉を経験すると新たな”ふれあい”を求めて前進することになる。
(参考)海を子どもたちの遊び場に
ここで新たな提案をする。

人は《「感動」という名のものさし》を持っている。ものさしだから計ることができる。そのものさしは人によって皆違う。
ものさしというからには、ものさしのかたちをイメージしてかまわないが、「かたち」はない。想像上のものさしだ。計る道具にたとえているが目盛りはない。何を計るのか? 「気持ち」を計るものさしだ。
人は、育ってきた環境、さまざまな体験・学習をとおして感性や価値観を持つようになる。好きなこと、得意なことは前向きに取り組もうとする。その前向きになれるものさしを持っていると考える。ものさしを「ハートスケール」と名づけてみた。
ぶらんこに乗りたい、と思うものさし

初めのうち、小さく細いものさし。何回も乗っているうち〈繰り返す体験〉によって太く丈夫になる。

大きくゆすられると、「こわい、やめて」と言ったりする。乗り続けて、ものさしをさらに太くして丈夫にする。丈夫なものさしを自覚するようになると、ぶらんこを大きくゆすってほしくなる。すると、ものさしはこうなる。太い部分は丈夫になった部分で、両端は経験がまだ浅いので細いというイメージ。

ぶらんこに乗るたび、さらに丈夫になる。〈繰り返す体験〉の意味がここにある。ハートスケールの原型ともいうべきイメージになる。

ぶらんこを降りる
ところで、ぶらんこから離れたい、自分で降りたいと思うようになる。だっこではなく、自分で降りたい。「おりる」と自己主張するようになる。ぶらんこを、ひとりで降りるときがいつか必ず来る。幼い子どもの心に、やってみようという気持ちが芽生えてくる。〈繰り返す体験〉でハートスケールが成長し、つまり、内言が充実してきて外言が生じ「降りる」と言い、降りる動作に結びつく。そして、初めてひとりで降りられたとき〈感動する体験〉となる。
こうした行動に出会うと、ぶらんこに乗ったばかりの幼児は、すぐに降りようとする。こんどは降りる体験を繰り返す。ハートスケールが、イメージではあるが、成長していく。
渚で足をぬらし、さらに前進するのも同じ理由による。
再び、感動する体験

左図で緑色は〈繰り返す体験〉で出来るものさしだ。ぶらんこを何回も繰り返し乗ることで出来るものさしだ。赤色は自分ひとりで降りることを意味する。
内言が充実し臨界に達すると、赤い部分はまだ本人には見えないが、本人の意思と行為で赤い部分に達することを予言している。結果、到達した瞬間、〈感動する体験〉となる。

イメージだが、ハートスケールから赤色に伸びてゆく細いものさし。赤色に達したその瞬間(=感動)赤い部分は消える。ものさしに取り込まれる。細いものさしは、〈繰り返す体験〉で太くなり、確かなものさしに成長する。
ヴィゴツキーの学習理論「発達の最近接領域」
- 発達の最近接領域 Zone of Proximal Development
- レフ・ヴィゴツキー 1896-1934
- ベラルーシ出身
- 旧ソ連の心理学者
- Wikipedia「ヴィゴツキー」項目
- レフ・ヴィゴツキー 1896-1934
ぶらんこから自分ひとりで降りられるようになるには、腰を少しすべらせるなどして足が地面にとどけばよい。背景では、心の準備がともないつつある。ヴィゴツキーは次のようにいう。
内面的発達過程を子どもに生ぜしめ、
呼び起こし、運動させる
子どもが今日共同のなかでなし得ることは、
明日には自分ひとりでなし得る
先程までは出来そうになかったことが、機が熟すというか、ふと出来る気がして、試そう、やってみる!──これが「発達の最近接領域」理論。
NG例:内面(内言)が充実することで、誰にも〈感動する体験〉は実現する。保育園等で、多くが出来(到達し)、出来ない子が一人とする。皆で励まして出来るようにすることはNGだ。〈感動する体験〉を実現するには、日を改めるなどして「待つ」ことが肝要だ。目的の行為が大事なのでなく「発達の最近接領域」への到達実現こそが大事なのだ。このことが発達保障になる。要は、子ども一人一人、自力で達成したと思わせる設定が必要だ。

ドリルの先が「発達の最近接領域」

昔話の効能を語るなかで、小澤俊夫は……
『こんにちは、昔話です』(p42)から。
──いつものお母さんの声で、いつものお父さんの声で、いつも慣れてる本を読んでもらって、安心して寝るということは必ずあります
これは、「体験3」に相当する。
──「未知への好奇心」は、魂をかりたてるものです
これは「初めての1回だけ」の「体験1」に相当する。
──「もう知っているものと再会する喜び」は魂を静めてくれます。子どもはその両方を求めているのではないでしょうか。
これは、「繰り返す」体験2に相当する。「その両方」は「未知への好奇心」のこと。

(参考)山鳥重の説:こころは、情/知/意の3層からなる動的構造体
2022.12.2Rewrite
2019.5.16記す