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昨年11月18日、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店2018年)を読み、「主体」にヒントを得た。《「あかちゃん」という主体 ── 主体論その1》を書いた。それから3か月、「つまずきの主体論」をタイトルにする小冊子の”完成”にたどりついた。とはいえ、「β版」としている。
じつは、もうひとつの課題がわたしにはあって、保育園での野外活動を今春4月からの年度を最終にしようと考えている。ずるずると先延ばしにするよりも、どこかで区切りをつけて、後継のために何か”かたち”にしておかないといけないと思っていた。「つまずきの主体論」の副題を「野外体験活動保育 All in One」とした。3,4,5歳とはいえ、彼らの主体をどう生かせばよいか──を考え、実践してきた50年であったからだ。「意識」について考えるヒントを得たことが、何よりの土産だった。「つまずく」ことは乳幼児にとって必要なことであって、避けては通れない──と信念にまでなった。食べものに喩えれば必須栄養素だ。
《つまずきの主体論》の「つきずき」は、負ではない。つまずくことで主体が生かされる。これを確かめたかった。意識については、まだ、学習途上なので、決定論とまでは言えない。
小冊子を読んでいただかないと、隔靴掻痒(かっかそうよう)だろう。ご希望の方にはお届けするので、ご遠慮なくお声かけください。
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1970年代の前半、”子どもたちに自然を”、という掛け声で、自然教室を始めたとき、「原体験」や「かけがえのない自然」という形容を多く使用した。”自然”での体験の必要を訴え、かつ実践活動であった。この時系列的な経緯については、大きな間違いを犯していないと思う。
しかしながら思うに、付加価値をほどこした「原体験」は、単なる「体験」とどこが違うのか。成長に “より必要な体験” を原体験と区別した可能性があるものの、押しつけがましい後ろめたさを感じ、反省したい気持ちになる。プラスする(付加する)のではなく、──〈生得的にすでに備わっているもの〉に、自身(主体)が気づくプロセスをつくる、ということだ。
気づきさえすれば、自身でなんとかする。そのために「つまずき」がある。つまずくことの社会的寛容/容認が必要ということだろう。
2025.3.1記す
