|||||「あかちゃん」という主体 ── 主体論その1 |||

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主体論

 ○年○月○日、AはBを出産した。□年□月□日、C病院で出産したDの子Eは低出生体重児(※1)2499グラムだった。☆年☆月☆日、ヤノマミ族のFは出産したGを抱きあげ(※2)育てる意思を示した。古代中国◎で、HはKに名をつけた(※3)。
※1)2500グラム未満を低出生体重児としている。
※2)”精霊たる”出生児を抱くことで”人間になる”という。ヤノマミとは”人間”を意味する。抱かなかった場合は精霊として天地に返す。
※3)白川静は、発掘された甲骨文字などによって、「夕+口=名」の「口」は、顔にある口(くち)ではなく「器」の象形で「口(さい)」と明らかにした。「夕」は肉の象形で、すなわち、食べ物をうつわに入れ神に捧げ、わが子の名づけを報告したという。「夕方の暗やみで自分の名をなのる」の成り立ち説は否定された。「生まれた」とはいえ、さまざまな状況がある。

 ノーム・チョムスキーほか『チョムスキー言語学講義』ちくま学芸文庫 p7
 //人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。フランスの乳児はフランス語の抑揚で泣く。これはどうやら胎内で獲得するもののようなのだ。//
 日本人のあかちゃんは日本語の抑揚で泣いているのだろうか。比較のしようがない。判定のしようもないが、おかちゃんのうぶごえをわたしたちはオギャーオギャーと表現する。胎内で獲得した上で生まれたということであれば、少々飛躍するが、「主体は胎内で芽生えている」と考えてよいのだろうか。
 国の定める保育所保育指針には、//一人一人の子どもが、周囲から主体として受け止められ、主体として育ち、自分を肯定する気持ちが育まれていくようにする。//とある。

 言ってみれば、ここまでは「主体の起源」である。「主体」という言葉の重みは、主体とは何かを認識することから始まる。「大切にする」という道義的文学的責任程度や表現ではなく、チョムスキーが言うように生得的であるならば、それは「生命の主張」と言い換えることも可能である。先住民のヤノマミが”文化”として決意を求められているさまは、主体の受け入れという極めて尊い行為である。

 さて、母体内で言語の抑揚(音韻)を身につけ、出生して「しばらくは」、自己がすぐさま成立するのではなく、母に始まる環境を参照する「間主観性」で説明できる。主体共存状態がおよそ2歳半頃までつづく。主体は、「利己的状況」から旅立つ。利己的状況を脱して、利他的な行為に導かれるようになるには4歳を待つことになる。

2024.12.1記す

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