||||| いきものを飼う・育てるは、むずかしい |||

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 いきものを飼う・育てるは、むずかしい。
 いのちを守るだけでなく、なんのために飼う・育てるかを問うことも、曖昧にしてしまいやすい。

 「観察」という言葉がある。幼児(小学2年生まで)は、「観察」はできないとわたしは考えている。
 「観察する」ということは、継続を前提にしている。観察した結果は事後以降に生かすという目的が含められている。こうした課題学習を幼児(小学2年生まで)に負わせるのは能力を超えている。
 サツマイモを例にしよう。イモ苗を植え、観察して、絵に描いて、あるいは造形工作して記録することはよく行われる。これは良しとしよう。そして、秋に収穫。途中の草とりやお世話もあるだろう。それぞれの記録をなんらかのかたちで残すことは積極的に良しとしよう。記録があるから(記録にとっておかなくても)苗植えの記憶を収穫に結びつけることは幼児に可能だ。
 しかし、収穫の成果や記録を評価し、次はこうしようということにならない。野外活動で最も大切にしなくてはならないことは、参加した子どもみなにとって楽しいイベントにすることだ。そのことが今後の〈やる気〉の基礎となる。
 収穫後、子どもが「どうせ、園に帰ったら絵を描かせられる」と思えば失敗だ。楽しかった思い出を記録するのか、記録するために思い出イベントを行うのか、こうしたことはありそうなので、よく考えて欲しい。幼児にとっての体験活動は「学習活動」であってはならない。

 セロトニンやドーパミンが放出されるといい気持ちになる。子どもに意欲をもたせようと思うなら、セロトニンやドーパミンを放出されることを意図すればよい。つまり、楽しいことが優先されてよい。
 たとえば、カエルをつかまえると持って帰りたいと言う。カエルを自身がつかまえると、あるいは誰かが手にしているのを見ると、ドーパミンが放出され、興奮し、「欲しい」と思ってしまう。この状況下で、飼う・飼わないの議論をしても、気持ちを整理させることは困難だ。30分、1時間、さらに1時間半から2時間経過すると、面倒になって……というか、満足してしまい、「放(はな)す」という子が出てくる。おとなが「もう放してあげたら」と声かけすれば、簡単に同意してあるいは積極的に「放してあげる」と言い、解放することで気分を良くすることが多々ある。
 カエルを発見できるその場所に、少なくとも30分、できれば1時間半から2時間とどまることのできる野外活動計画にしておけばよいということになる。即ち、飼う/飼わないの解決は子どもの課題ではなく、おとな(先生)の課題ということになる。1時間半経過しても「飼いたい」と思い続けている場合の解決法はここでは示さない(示せない)。わたしは、飼ってみるしかないと思う。

 こんな話を聞かされた。
 田園を背景とした保育園で、園長自身子どもの頃、カエルを地面に叩きつけ死んだカエルをひもに結わえてザリガニをとった、と話す。いのちの尊厳を教えたい、身につけさせたいと思うとき、教育機関として現代では採用できない方法だろう。
 ニワトリを絞め、食肉を体験させる教育的イベントがある。周到な教育課程で行うなら方法もあろうが、野外活動イベントとして生殺与奪が可能な環境設定は極めて限られるだろう。
 枝を折ったら「イタイ(痛い)、イタイと言うよ」と擬人化して説教するのもどうかと思う。枝を折ったらなぜよくないのか、子どもが納得して活動に臨めることが優先だ。

 飼っていて、死んだらどうするか? 一度、二度なら”お墓”も良かろう。しかし、続くなら、飼うことを止めることだ。子どもと話しあって決めたことであっても、継続観察が幼児には困難なように、飼うとなれば〈おとな(先生)〉が、死なせない・飼い続けるという覚悟がいる。
 ※外来生物においては、リリースに制限がある。このような知識も求められる。

 お勧めしたいのは、チョウの羽化、セミの羽化だ。羽化するタイミングは〈おとな(先生)〉の経験・学習が必要だが、同時進行で、子どもと体験してもよい。

2021.1.7記す

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